第2回憲法講座 その2
札幌厚生年金会館
2005年4月16日
 
「国連の集団安全保障体制について」
 
                 国際基督教大学 平和研究所所長 最 上 敏 樹
 
 
 今日の憲法講座ですが、私は国際法が専門でありまして憲法は専門ではありません。国際法の話、特に国連の研究を中心にやっていますので、国連から眺めた場合にどういうことが言えるか、憲法論議と重なる部分もありますし重ならない部分もある。そういうことでお話ししていきたいと思います。
 今日は国連の集団安全保障体制についてお話しするわけですが、項目としては12項目を用意しておきましたが一番大事な点は二つあります。
 一つは、国連の集団安全保障体制というものは、日本で言われているほど内容がはっきりしたものではないということ。国連の中でもまだこれはいったい何なのだということで、みんなが悩んでいる問題だということです。ですから国連の集団安全保障体制に従って云々という話は、簡単には成り立たない。大もとになるものが実ははっきりしていないのだという話をさせていただきます。
 それからもう一つ、これは国会での議論など聞いていても、こちらも頭をかしげることが多いのですが、集団安全保障体制と集団的自衛権というものは全然違うもので、日本ではその区別もろくになされていない。このことをもう一本の柱としてお話ししたいと思います。そういうずれを全部足していきますと、どうして国連の集団安全保障体制の話から、いつの間にか集団的自衛権の話に移って、それが憲法の改正の話につながっていくのか、私のような専門の目から見ますと、ほとんど理解不可能という話に実はなっていくわけです。まずレジュメに沿って話していきますが、国連の集団安全保障体制がどういう経路でできてきたかという話からしたいと思います。
 
【「4人の警察官」−米国は国連の安全保障体制をどう構想していたか】
 レジュメの最初に「4人の警察官」という言葉を書いてありますが、この言葉をお聞きになったことがあるという方いらっしゃいますか。余りいないと思うのです。そうすると、これを知るためにはどうしたらいいかといいますと、つい3週間ほど前に、私が岩波新書で「国連とアメリカ」という本を出していますので、ぜひこれをお買い求めの上、読んでください。そこに詳しく書いてあります。しかし、そこに書いてあるから言わないよとは申しません。ここでちょっとだけお話ししておくというサービスをしたいと思います。
 「4人の警察官」というのは、第2次大戦中にアメリカとイギリスが戦後平和体制を構想し始めたときに、当時のアメリカのローズベルト大統領が真っ先に考えた戦後平和体制です。戦後安全保障体制。4人といいますのは、その当時の戦争をリードしていた四つの大国です。アメリカ、イギリス、ソ連、そして中国。昔の中国です。今の中華人民共和国になる前の中国です。この4つで、その頃フランスはドイツに占領されていましたので、大国の扱いを受けていなかった。ぎりぎりまでフランスはそういう扱いを受けていないわけです。ですから1945年に戦争がほぼ終わるまでは、世界を取り仕切っていることになっていた大国というのは4つだったわけです。その4つが世界の安全保障をすべて取り仕切るというのがローズベルト大統領の戦後構想だったわけです。この4つだけが大きな軍備を持って、軍備を出し合えば世界の安全保障は保てると、そうあるべきだと。どこまでローズベルトがそれを徹底しようと考えていたかわかりませんが、他の国は基本的に武装解除の方向を進めるようなことをたぶん考えていたのでしょう。何しろアメリカはこういう4つの国だけで世界の安全保障を賄うという、これも相当に非現実的な話だと思うのですが、そういうことを考えていたわけです。
 
【「強制行動」としての「集団安全保障」−集団安全保障はまず侵略への制裁として】
 そのときに考えられていた安全保障というのは、どういうものであったかといいますと、集団安全保障ということを本気になってやろうという話になってきた。集団安全保障というのは何かといいますと、国連があり、その前に第一次大戦が終わった後の国際連盟というものがありましたけれども、国連の前にまずその国際連盟で考えられた方式で、国際連盟の加盟国のどれであれ、どの国であっても他の国に対して武力行使をしたら、連盟の加盟国全体に対して武力行使をしたものと見なすという考え方です。それを他の国で集団になって制裁を加える。あるいは侵略をやめさせるというやり方です。それまで同盟対同盟のにらみ合いで考えられていた安全保障というものを根本から変えてしまおうと。敵も見方もない、みんな一つの組織の中に取り込んで、その中のどれか一つでも悪さをしたら、他の国がみんなで束になってその国を押さえるというのが集団安全保障ということの考え方です。
 集団安全保障というときにどういうものがあるかといいますと、これは細かく言いますと経済制裁のたぐいから始まって、最後は軍事制裁のようなものにまでいくのですが、この国連ができるときにローズベルトが考えていた「4人の警察官」というのは、何よりも軍事的な行動、制裁、これを今の国連の用語では強制行動といいます。軍事的な強制行動といいまして、そういう武力を使った措置をとるということを何よりもこの4人の警察官構想というのは考えていたわけです。
 まとめて言いますと、要するに4つの国が強大な武力を備えて、それが他の国々の侵略を世界全体に代わって押さえていく、押さえ込んでいくというのがローズベルトが考えていた集団安全保障だったわけです。これが国際連盟のときにはうまく働きませんでした。日本やドイツやイタリアといった主要な国々が、次々と国際連盟を脱退して、この国々が率先して侵略を働いたものですから、国際連盟の他の弱小な国々はどうしようもない。国際連盟にアメリカが入っていませんでしたから、アメリカもそれを押さえる役には回るはずもないということで、国際連盟では集団安全保障の仕組みがつくられはしたのですけれども、実際にはそれが本当には働かなかった。これではまずいから、せめて国連ではこれをちゃんと働かせるようにしようと。国連が国連の中の加盟国の4つ、あるいは後に5つになりますが、この国が十分な兵力を持って、それが侵略を押さえるようにしていこうということをいよいよ本気で考えたわけです。ただ、この構想が練られ始めるのは1943年ごろからです。ほとんどアメリカが中心になって、時折イギリスが意見を出したり、ソ連がだだをこねたり、いろんなことがあって、2年近くかけて1945年ぐらいまで、ああだこうだと国連の構想づくりというのが進められます。戦争をやっている最中にそれをやるわけです。
 
【誰が誰に対しておこなう強制行動か−まず旧枢軸国に対して、ついで小国(非常任理事国)に対して】
 その当時のアメリカの記録を見ますと、本当に大変な活動で、アメリカという国がそれだけ余力があったのだなということがよくわかります。戦争をやっている真っ最中に次の国際連盟に変わる新しい国際機構をどうするかということを国務省、日本で言う外務省、国務省をあげてやっているわけですから、相当余力があったと言っていい。とにかくそのどさくさの中で国連の集団安全保障というものがつくられるわけですが、基本的にどういうものとして考えていたかというと、基本的にはかつての枢軸国、つまり日本、ドイツ、イタリア、あるいはその仲間の国々、この国々を懲らしめるための安全保障の仕組みということで国連の集団安全保障というのは考えられていたのです。何よりもまず、かつての枢軸国、これがこの第二次世界大戦のようにもう一度侵略に走ったら、この国々を押さえ込むのだという考えで、国連の安全保障体制というのはつくられているわけです。何よりも日本、ドイツ、イタリアが敵であるような、そういう機構としてつくられたのが国連だったわけです。
 ただ、それだけを露骨に言ってしまったのでは、世界全体の安全保障を考える機構というふうにはならない。そこでどうするかというと、世界中のどの国であれ、侵略などを働いた場合には、それを押さえ込むのだという、必ずしも枢軸国だけではなくて、他の国々も対象とした集団安全保障ということに最終的には変えていきました。ただそれでも国連の加盟国全部に対してそういうことをやるのか、どの国が侵略をしても国連は押さえ込むような仕組みになっているのかというと、そうではないのです。何をしても絶対に罰せられない国というものをつくった。それが安保理の常任理事国です。
 なぜ何をしても絶対に罰せられないかといいますと、国連が強制行動を起こす。軍事的な制裁などをやるという場合に、それを決める権限を持っているのは国連安保理です。安保理の中で5つの常任理事国だけは、ご存じのとおり拒否権というのを持っていますから、1カ国でも反対すれば、どんな決議でも葬り去ることができる。例えばソ連が、今ロシアになっていますが、この国が侵略をしたとする。これに対して、国連としてこの侵略を制圧するような行動をとろうという安保理決議案が出てきたときに、かつてのソ連、今のロシアはそれに対して拒否権を投ずれば、安保理決議というのは絶対成り立たないわけです。アメリカもそうですし、フランスもそうです。実際、国連安保理の決議では、そういうことが頻繁にあります。採決の結果をと議長が言うわけですが、賛成14、反対1、よって否決されますという、普通の耳で聞いていたら変なセリフがよく出てくるのです。ただし、その反対1票が常任理事国によるものだったのでという説明がついて、それでだめになってしまうことが安保理ではよくあるわけです。安保理の常任理事国になるということは、ですから最大のメリットがあるとすればそういうことだろうと思います。侵略をしたときに自由にできる。だれからもお仕置きを受けないで済むというのが、拒否権を持った安保理常任理事国の最大の特権です。本当はもっとうまく働くことが期待されていたのですけれども、つまり安保理の中で、幾つかの国がまとまって悪さをしようとしたときに、良識を持った国が1カ国でもそれを食いとめられるようにということを考えていた。そういうふうに使われるならば、拒否権というのはいい働きをするものでもあり得るわけです。でも実際には、拒否権はどういうふうに使われてきたかというと、アメリカであれ、かつてのソ連であれそうですが、自分の武力行使に対する非難決議が出てきたときに、それを否決するために使う、あるいはアメリカの場合ですと、アメリカの最大の盟友であるイスラエルがしょっちゅう安保理で非難決議の対象になるわけですが、パレスチナに関連してイスラエルが武力行使をしたり、その他様々な虐待、人権侵害のたぐいをやりますので、それに対して安保理が非難決議をしようとすると、アメリカがそれに対して1国だけ拒否権を投じて、その決議の成立を妨げるということが頻繁にあります。
 ということで、要するに安保理の常任理事国というのは、国連の集団安全保障の対象にはならないということなのです。国連の集団安全保障というのは、最初から一つだけ大きな穴をあけてある。その穴の中には弾を打ち込めないし、打ち込んだところで弾が素通りしてしまうような、そういう穴をつくってあるわけです。ですから安保理の常任理事国になりたいというのは、国の名誉だというような感情面のことはわかりますが、国連の仕組みという観点から見てみますと、安保理の常任理事国になりたいというのは、要するにメリットとしては自由に侵略ができる、違法な武力行使でも自由にできるという特権が得られるということぐらいしか、国連を見ていると余り思い浮かんでこないです。ということで、やや何となく変な規定が出てきた。
 
【国連憲章43条;「5カ国」から「加盟国」へ−当初は5大国の兵力で、最終的には全ての加盟国】
 その集団安全保障というものに対しては、誰が、どの国が、どういう貢献をすることになっているのかというのが次の問題になります。今まで話してきましたのは、誰に対して集団安全保障というのは発動されるか、誰に対して発動されないかという問題であったのですが、誰がそれでは強制行動を起こすのかというのは次の問題になりますが、どうも国連憲章がつくられる頃には、最初は4つの大国は自分たちで基本的に賄おうと考えていたようです。さっきも言いましたけれども、そういうことを後で時代が落ち着いてから考えてみたら、そんなことが簡単にできるわけがないのですが、火事場のどさくさの中では、自分たちが力を合わせれば十分な兵力が賄えると思っていたのでしょう。5カ国で出すのだということが考えられていたようですけれども、実際にはそれがすべての加盟国が何らかの形で協力するのだということになりました。これが国連憲章でいいますと43条という、これも大事な規定ですが、この43条の前の41条で、いわゆる経済制裁のようなことをやるのだと決めています。それでも足りなかった場合にはということで、国連憲章の42条では、いわゆる軍事制裁、先ほどから言っています軍事的な強制行動です。そういうものをやるということになっている。
 
 
【特別協定方式;全加盟国皆兵制度ではない−43条;兵力・援助・便益・通過権】
 それを受けて国連憲章43条では、そういうことを国連が実際にやるとなったときに、加盟国が何をどれだけ貢献するのかということを決めましょうということを決めてあるわけです。
 それがどういうものか、何を43条は決めているのかというと、国連の加盟国は、安保理と特別協定を結ぶと。特別協定を結んでおいて、国連が強制行動を起こすときには、我が国はこれこれこれだけの貢献をしますよという定めにしておくということなのです。その中には、例えば空軍の兵力何名とか、あるいは飛行機何機とか、海軍の戦艦何機とかということを言うのも自由だし、あるいは我が国は物資の提供だけにとどめるという国もあり得るだろう、様々なバリエーションがこの43条では最初から規定されています。
 ですから国連では集団安全保障をとっていると。その集団安全保障をやるために、国連憲章43条で特別協定というものを結ぶことになっている。だからどの国も、加盟国である限りはすべて国連の軍事行動に兵力を送って参加しなければならないということを言うとしたら、それは国連憲章上は全くの誤りです。加盟国によって何をどれだけ差し出すかというのは、この国連憲章43条に基づく特別協定で、いわば自由に決められるようになっている。自由にといいましても、周辺の国々への配慮とか、ほかの国々との負担の公平とか、いろんな配慮があるでしょうから、全く好き勝手なことを言っていいということには政治的にはならないかと思いますが、法的には一応自由になっているわけです。
 そのことを私はレジュメの5のタイトルにもなっていますけれども、「全加盟国皆兵制度」というものではないのだという言い方をよくします。日本ではよく国連の加盟国である以上、あるいは国連の安保理の常任理事国になったら、国連の軍事行動には必ず兵力を出さなければいけないのだというような前提で出てくる話がよくありますが、そういう全加盟国皆兵制度というのは、今の国連ではとっていません。いかなる場合でもそういう制度は考えられたこともないし、とられてもいないし、また行われたこともない。実際問題として、今の国連の加盟国は何カ国あるか皆さんご存じですね。191あります。それで国連が何か行動を起こすたびに、191の国が全部兵力を提供していたらいったいどういうことになるか。各々の国が5人、10人という単位で出したら大した数ではないかもしれませんが、軍隊というのは5人、10人という単位で出しても何の意味もないものですから、やっぱり数百人とか1,000人とかいう単位になると思うのですが、そんな単位で191もの国が兵力を出しても、ほとんど使い道がないわけです。そういう実際上の問題もありますが、実際上の問題以上に制度の問題として、すべての国が兵力を出さなければいけないという決まりはどこにもないということです。だから知らん顔していいということでは全然ないのですが、義務の問題としてはそういうことです。
 
【非軍事的措置と軍事的措置−「国連が戦争する」だけでない;いわゆる経済制裁も含まれる】
 そこで話がちょっと元に戻すことになりますが、それでは強制行動というのは具体的にはどういう種類があるのか。つまり集団安全保障としてとられる措置が強制行動なわけですが、具体的にはどういうものがあるのかというと、これは強制行動というと、とかく軍事的な措置、つまり一般的に言うところの軍事制裁です。こういったものだけで考えられがちなのですが実際にはそうでありません。もう一つ、国連憲章の41条で定められた非軍事的措置というものがあって、これは普通に言うところの経済制裁とか、文化交流の制裁とか、そういったものです。国連憲章の規定から見ますと、まずこれを徹底してやらなければならない規定になっているのです。いきなり国連が軍事制裁を起こすという考え方にはなっていません。まず非軍事的措置、いわゆる経済制裁や外交上の断絶だとか、あるいは文化的な措置だとか、そういったことを徹底してやって、それでも不十分だったら軍事的な措置をとるということもあり得るというのが国連憲章の決め方なのです。経済制裁とか文化制裁というのは、これまで随分たくさんの例で行われています。
 例えばずっと人種差別政策とかやっていた南アフリカ共和国というのがありますが、あの国に対しては何年も国連がこの経済制裁をやっていました。経済制裁、文化制裁。それから、ユーゴスラビアの内戦が始まってからは、セルビアに対しても随分この制裁が行われていました。そのことを知らないで、セルビアから日本にやってきたなどという人がいまして、日本も実はこのときの非軍事的強制措置にはちゃんと参加しているわけです。うっかりそういうセルビアのような国から来た人を入れてしまうようなおっちょこちょいの国もあるのですが、日本の入管というのはそういうところはずいぶん優秀なようで、成田まで来て成田から追い返されたというセルビア人がかなりいます。あなたたちはいま入ってはいけないのです、日本には文化交流をしてはいけないことになっているから、文化交流ビザで来ているあなたたちは入ってはいけないと言って追い返された人もたくさんいるのです。そういうことは日本が勝手にやっているのではなくて、安保理決議に基づいて、セルビアに対する制裁として行っているわけです。それがそれなりに効果を持っていたはずなのですが、最終的には国連の手を離れて、NATOがセルビアに対して攻撃を加えるという形であの紛争は終わったわけですが、いずれにしても非軍事的措置というものが国連憲章の中では軍事的措置よりも先立つものであって、それが実際にもしばしば行われているし、効果を発揮することもあるのだということは考えておいていいだろうと思います。
 
 
【軍事的措置の乏しさについて−軍事的措置は不完全な一例しかない(朝鮮戦争)】
 もう一つ、よくよく覚えておかなければいけないことは、国連が軍事行動を起こしたら、国連軍がつくられたら、それに日本は参加するのだと、全面的に参加するか、あるいは全面的に参加しないかというような議論がありますが、国連が軍事行動を起こした。そうやって国連軍が働いたというケースは、具体的にどれぐらいあるか皆さんご存じでしょうか。 国連軍がつくられたら、どれもこれもフルに参加しなければいけないのだと言われることは、しょっちゅうあるような気がしますが、この例というのはこれまで1例だけです。国連が軍事行動を起こしたことになっているという形にした例というのは、1950年からの朝鮮戦争だけです。
 あのときも実際には実態としてはほとんど米軍で、それも国連決議が行われる前に米軍はもう作戦行動を起こしていたわけですから、後でおたくの軍隊が国連旗を使っても構わないよと。国連の名のもとに軍事行動を北朝鮮に対して起こして構わないということを言ったというだけなのですが、とにかくそういう形は整えられて、安保理決議もありましたから、国連の軍事的な強制行動がとられたというような形式にはなっています。それ以外にはと言われると、安保理決議で国連軍がそういう強制行動を起こしたという例は、その後絶えてないのです。
 よく国連軍と言われるものは、いわゆる国連平和維持軍です。例えば、これは1956年のスエズから始まったもので、日本が、自衛隊が参加したもので言いますと東ティモールとか、それからゴラン高原でやっている発動だとかこういったものがありますが、これは国連の集団安全保障体制で考えられていた強制行動とは根本的に違うものです。どういうふうに違うのかというと、軍事的な強制行動というのは、朝鮮戦争のぐあいを見ればわかると思いますが、この国は侵略をした、あるいは侵略に準ずる行為をしたと判断した場合に、その国に対して実戦部隊が攻め込んでいくわけです。本当に戦闘をやるわけですね。それに対して、平和維持活動というのは、もともとはほとんどライフル1丁、せいぜい自動操縦1丁ぐらいの軽武装で、自分の身を守るための小火器、小さな兵器です。それだけ持って、それもできるだけ使わないで、それで紛争当事者の間に割って入るという活動だったのです。基本的に今もそういう路線が保たれています。幾つか失敗して、やや激しい戦闘にいつの間にかなってしまったという失敗例もありますが、そういうものを除くと、ほとんどすべての、今まで59例ある、最近60になりましたけれども、60例ある国連平和維持活動というのは、基本的に軽武装、あるいは非武装で紛争当事者の間に割って入って、紛争当事者がもう一度ドンパチを始めないようにするというのが、この平和維持活動というものです。それが全部一まとめにして国連平和維持軍と呼ばれているものですから、国連憲章で考えていたような国連軍というものはどんどんつくられたかのように思われている方も多いようですけれども、実際にはそういうものはないです。
 例えば1991年の湾岸戦争はどうだったのかとお思いになる方もいるかもしれません。あれも安保理決議がとられて、本当に激しい戦争になって、つい最近またイラクでやりましたから、最近の方が記憶に新しいかもしれませんが、あの1991年の戦争は第2次大戦が終わってから初めて戦争が実況中継されるというすさまじいもので、史上最大の花火大会ということを言われましたが、夜空をミサイルが飛び交っている様子が全部実況中継されるわけです。ああいう大変な戦争でしたが、あれは国連の強制行動ではないですね。なぜ国連の強制行動ではないかというと、安保理決議はとられましたが、安保理決議で国連軍というものが編成されて、国連の軍事行動が行われたわけではない。安保理はあの当時多国籍軍と呼ばれましたけれども、アメリカ軍をはじめとする各国の寄せ集めの軍隊に、イラクに対して武力行使をしてもいいと言っていわばお墨つきを与えたということなのです。これはあくまで米軍その他の国々に対して、実際に参加したのは16カ国ですけれども、16の国に対して戦争をやっていいよというお許しを安保理が与えたということであって、国連がやった強制行動とは違うのです。
 国連が軍事行動を起こすということは朝鮮戦争以降は例がない。1953年以来絶えてないわけです。そう考えていきますと、国連が軍事行動を起こした場合に、国連軍が編成された場合にと簡単に言いますが、いったいどういう場合を考えているのか。これまではなかったけれども、これからはどんどん国連軍というものが編成されて、その国連軍がどんどん戦争をやって歩くというシナリオが、いったいどこから出てきているのだろうか。 少なくとも国連の実態を知っている人間からはそういうシナリオはほとんど出てきません。そういうシナリオを書いても、そんなに自分たちには関係のないところに兵力を送ってたとえ国連の名においてであろうと、そういう戦争をやりたい国がこの世の中にたくさんあるとはとても思われない、だからそういうプランを練る国もほとんどないわけです。やるとすれば、自分と利害関係のある国に行って、自分の損得のためにやろうという国はあるだろうと思います。そういう例は最近でもたくさんありますが、全く無関係なところに自分の国の兵士を送って、たくさん戦死してこいなどということを言う軍の司令官というのは、普通はいないはずなのです。ということで後のことをこれから将来のことを考えても、国連がどんどん戦争を元気にやって歩くというシナリオは余り考えにくい。だから何の話をしているのやらさっぱりわからないというのが、われわれ国連専門家の嘆きなのです。
 
【多国籍軍あるいは有志連合への傘下について;大勢順応主義−「動機さえ正しそうなら合法かどうかは無関係…うやむや主義】
 その次に、レジュメで言いますと8番のところへ話が移りますが、その国連がじゃ軍事的な措置、軍事的強制行動をとらないのだとしても、多国籍軍とか、あるいは最近は有志連合とか言われるようになったものが結構やっているじゃないかと、武力行使をやっているから、それに参加しなければいけないのではないかというお話ですが、これは国連とは全く関係のない話になっていきます。この辺の話の切りかえには十分われわれは注意しておかなければいけないと思うのですが、そうやるべきだと賛成するにしても、そうやるべきではないと反対するにしても、どちらであっても、話がそこで切りかわっているのだということはよくわかっておいた方がいいと思います。国連の決めた国連の強制行動に参加するということと、有志連合がやっている戦争に対して、日米の軍事同盟が大事だからという理由で参加するのとは、全く法的には違った意味の事柄なのだということはわかっておいた方がいいだろうと思うのです。とりわけ国連の集団安全保障の中で軍事行動に参加するという場合には、それが必ずしも日本の交戦権の発動ということにはならないであろうと思われるのに対して、有志連合に参加して軍事行動を一緒にやるというのは、これは交戦権の発動にほかならない。だから有志連合への参加というのは、交戦権を持っていなければできないことなのです。そういうことを考えても全然違うことなのです。違うことであるにもかかわらず、あたかも同じことであるかのように要するに、スイッチの切りかえをしないで国連にも貢献しなければいけない。だから有志連合にも貢献しなければいけない。全部ひっくるめて国際貢献だという一言でまとめてしまうのは、議論としては甚だ乱暴な議論であって、共通点はただ一つだけです。それは大勢順応主義ということです。その時々の勢いのいい方についていくというだけのそういう政策決定の仕方です。こちらがたくさん圧力をかけてきている。この圧力に逆らうとあれこれ言われそうだな、怖いから言われるとおりにしようかというのが大勢順応主義ですが、湾岸戦争以降の日本は特にこの大勢順応主義というものが強まっているような気がします。自分たちの政策がこういうものだ、これは正しいものだと思うからやるのだということではなくて、言われたからやる、やらないと悪く言われそうだから、あるいは怒られそうだからやるというだけの意思決定の仕方が非常に多くなっているような気がします。
 そうすると、どういうことが起きてくるかというと、2年前から起きているイラク戦争に、一応非戦闘部隊だということになっていますが、それに軍隊を送るという決定にもなっていくわけです。これも私はこの2年前から随分議論をしてきたことですが、2年前からのイラク戦争というのは、根拠さえはっきりしない。これは皆さんもよくご存じのとおりだと思いますが、大量破壊兵器があるからあそこで戦争をするのだと言って行ってみたけれども、その当時からないないと言われていたのですが、やっぱり行ってみたら本当になかったという非常にお粗末な話で、そういうどうも根拠がほとんどなかったというものだったわけですが、それに加えて法的な根拠もはっきりしなかったのです。事実の根拠がはっきりしなかったという、ほとんどうそだったということがようやくわかったわけですが、それに加えて法的な根拠もはっきりしない。自衛権の発動だとか何かいろんな話がありましたけれども、なぜイラクに対してアメリカやイギリスや日本が自衛権の発動をすることになるのか、どう考えても法的には説明がつかないことがたくさんあったわけです。そういうことをやっているうちに、だんだん法的な根拠なんかどうでもいいじゃないかという話になってきた。イラクというのはどうもけしからん国だ、フセインというのは悪いやつだと言われれば、みんなそうかなと思いますので、どうもあの人は立派な人だという印象もみんな持たないものですから、そうこうしているうちに法的な根拠がどうであったって別に構わないじゃないかという話にいつの間にかなってしまった。あれで世界がよくなったのだからいいじゃないかという話まで出てくる。これは、あれで本当に世界がよくなったのかどうか、今のイラクの相変わらず一般市民が次々と殺されていくという状況を見ると、世界の何がよくなったのか、もう少しきちんとした説明が欲しいものだなと思いますが、どちらにしてもこういう物事の決め方というのはうやむや主義です。大勢順応主義でもあると同時にうやむや主義でもある。本当にどういう根拠に基づいて、どういう事実的根拠に基づいて、どういう法的根拠を加えてこういうことをやるのだという議論をきちんと立てようともしないで、その時々の成り行きに任せて、こうなっちゃったからしようがないということでやるやり方というのは、第二次大戦になだれ込んでいったときの日本のやり方と同じです。自分たちは何もしていないのに、周りがどんどん悪いことしてくる。確かにアメリカにしろ、イギリスにしろ、日本をいじめていたということはあるのですが、それにしてもだからといって日本が周辺の国々にどんどん武力行使をしていいなどという話には簡単にはならないはずなのに、自分たちは何も悪くないのに、他の国にいや応なしに戦争に追い込まれてしまったという話にしてしまう。あの状況と非常によく似ていると言うべきだろうと思います。
 
 
【集団安全保障の現状−未確立なのに加え、対イラク戦争で屋台骨が揺るがされる。アナンの警告;法の支配の動揺、先日の改革報告】
 というわけで、ここまでのお話をもう一回まとめますとレジュメの9になりますが、国連の集団安全保障体制の現状というものは、戦後60年を経てもまだ確立していません。 そもそも出だしのときにはいろんなごちゃごちゃ難しい込み入った話があって、それをようやくまとめて、さっき言ったように大きな穴はあるけれども、一応こういうやり方をしようという集団安全保障体制というものが国連憲章の中に書き込まれたのですが、それがきちんと実行に移されているという形跡もないし、それからこれからどうやっていくのかという構想があるわけでもない。それが国際社会が持てる安全保障体制としては多分一番いい安全保障体制だろうと言われていた国連の集団安全保障体制の残念ながら否定することのできない現実なのです。いいものかもしれない。理念的にはいいのですが、実際上はどういうふうに働くのかよくわからない。
 それだけではない。2年前の対イラク戦争で起きたことは何かというと、国連の集団安全保障体制というものは、別に使わなくていいという動きが起きたということなのです。それがアメリカやイギリス、それに同調して参戦した国々の行った行為の意味です。基本的には、集団安全保障体制というのは、安保理の中で5大国の一致がなければできない。それがそもそも得られないわけです。アメリカやイギリスがごり押しをしようとしているのに対して、フランスやロシアの5大国ではありませんがそれにドイツも加わって、これは根拠がないからだめだということを言う。アメリカやイギリスに対して賛成をしない。そうすると、その段階で国連の集団安全保障体制というのは本来働かないものなのです。働かないときにどうするかという、そのかわりの手当てをどうするかということはまた別に考えなければいけないのですが、何しろその国連の集団安全保障体制の中では、アメリカやイギリスの行為というのはやってはいけない行為のはずだった。それをあえてやったということは、国連の集団安全保障体制というものが、いわば後ろ足で泥をかけられたような扱いを受けたことになるわけです。おまえたち、やらないというのならいいよと、国連なんか知らない、おれたちは勝手にやるからと言って始められたのがあの2年前の対イラク戦争です。国連なんかどうにでもなってしまえということ。だから、その戦争に対して国際貢献だと言って参加した国々は、簡単な兵力を送った国も合わせて全部で40近くになるそうですが、それは国連の集団安全保障体制というものに対してノーを言った国々なわけですね。その中に日本も含まれるわけです。国連の集団安全保障体制なんて知らないよ、こちらはこちらで勝手にやるんだからという国が幾つかあらわれた。ということで、日本を含む幾つかの国が国連というものを決定的に否定したわけです。これが、よくわからないのですね。国連というのは、日本でよく理想化されているようなそれほど立派な面ばかりではありませんし、欠点も多いものですから、特にわれわれ国連の専門家というのはそれをよくわかっているのですが、そうではあれ国連というものをうまく活用しながら生きていかなければ、国際社会というのはうまくいかないだろうと思うのです。それがだめだと、そんなものは当てにならない、我々は我々でやるのだというのに、国連の安全保障理事会の常任理事国の地位だけは欲しいという発想が論理的にどうつながるのかというのが、私などにはほとんどわからない。だめならだめって言っていいと思うのです。だめならだめと言うなら徹底的に言えばいいと思う。そのかわりこういうふうにしようという代案をつくって、国連のつくりかえを考えればいいだろうと思うのですが、そういうアイデアはないけれども、今のままの国連に特権的な地位を与えてもらって入りたいという意見が出てくるのはよくわからないわけです。何しろ集団安全保障というものが、2年前からの対イラク戦争で屋台骨を揺るがされた。おまえたちはもう知らないという強い国があらわれて、本当に勝手に戦争をやってしまった。国連もうそっちのけにして戦争をやってしまった。
 そこで、とりわけ大きな危機感を抱いて、2003年のその戦争の前ぐらい、2002年の末ごろから何度も警告を発しているのが今のアナン事務総長です。事務総長というのは、しょせん国際公務員の事務方の親分ですから、政治の代表である有力な加盟国と渡り合えるような力はほとんど持っていません。ですから言ってみれば対処交渉に立って、自分なりの意見を言うというのがこの事務総長というものの仕事でもありますし、またできるせいぜい精一杯のことなのです。その辺で精一杯のことですし、有力な加盟国からにらまれるとほとんど何もできない地位ですから、普通は有力な加盟国に対して、はっきり物申すということはしないものなのです。それがこの2年ちょっとのアナン事務総長は、相当はっきりものを言っています。もともとは非常にアメリカと近い関係にあったということを言われて、またそれを批判されたこともあるぐらいの人だったのですが、あまりに親米的だという批判さえされていた人なのですが、対イラク戦争のああいう武力行使に対しては、相当はっきり批判をしました。もちろんそうめったに名指しで非難はしないのですが、安保理の決議も終えないで戦争をやるということは、これは国連憲章違反だ。そして国連憲章のこの集団安全保障に対する挑戦である。国際社会の法の支配を揺るがすものだということを彼は何度も何度も指摘しています。去年の国連総会の開催日にもそうでしたし、一昨年の開催日にもそうでした。国連の事務総長がそういう同じ指摘を2年も続けて総会の開会演説でやるというのは全く異例なことです。それぐらいもともと親米的だったこのアナン事務総長が、アメリカやイギリス、それから同盟国の行動に対して警戒感を持っているということです。このままでいったら、国連がガタガタになってしまう。まだ確立していない集団安全保障というものが、この国々によって壊されてしまうということを事務総長は心配しているわけです。あまりはっきりものを言い過ぎたものですから、おまけにアナン事務総長が愚かな不出来な長男を持って、何か変な金を受け取ったというようなことが出てきてしまったものですから、それ見たことかということで、いまアメリカからはアナン下ろし、アナンを引きずり下ろせという運動はかなり活発化しています。実際にアナン事務総長の周辺に、そういうスキャンダルがあったことは確かですが、スキャンダルだけでいま責任を取らされようとしているのではなくて、この2年ちょっとの間、アナン事務総長が、アメリカに対して率直な批判をしたということが嫌われているという面は明らかにあるのです。そうやって引きずり下ろされた国際機構の長だとか、国際司法裁判所の判事だとかという人は実際にこれまでもいますので、アナン事務総長も安閑としてはいられないだろうと思います。彼は2期目ですから、3期目ということはほとんどあり得ないので、次の選挙を心配するという必要はないのですけれども、2期目の途中でも引きずり下ろされるということがないとは言えない。そういう意味で、アメリカがあれだけむきになってアナン批判をやっているというのは、アナンさんにとってはやや不運な面があるかなと思います。
 
 
【集団安全保障と集団的自衛権−両者は全く異なる。集団的安全保障は偶発的に挿入】
 その集団安全保障というものがどうもはっきりしていない。はっきりしていないうちに、対イラク戦争で屋台骨を揺るがされそうになって壊されようとしているというのが今の現状で、ではその集団安全保障と集団的自衛権というのはどういうふうに異なるかということなのですが、集団安全保障というのは先ほど言いましたように、一つの機構、国連であれ、その前の国際連盟であれ、その一つの機構の加盟国が一丸となって悪さをした国に処置をとるということです。それに対して集団的自衛権というのは、国連の加盟国なら国連の加盟国全体が一丸となるのではなくて、それを幾つかに分けます。2つでもよし、3つでもよし、4つでも5つでもいいのですが、幾つかに分ける。分けてできるものは何かというとこれ軍事同盟です。軍事同盟と軍事同盟がやり合う、あるいは軍事同盟が束になって悪さをした一つの国に国際社会全体の意思としてではなく、その軍事同盟の意思としてやる。例えばNATOとしてやるとか、日米安保としてやるとか、そういう武力行使の形態です。国連がやるものではなくて、あくまで幾つかの国が束になってやるものが集団的自衛権というものなのです。
 集団的自衛権というのは、要するにいくつかの国でつくっているグループが、グループの中の一つの国が攻められた、あるいは脅威を感じたという場合に、他の国が仲間だから一緒に助けるよと言ってやるのが集団的自衛権ということです。国際社会全体の観点から、この国にお仕置きをしなければいけないと言ってやるのではなくて、仲間がやられているからそれを助けるのだ、軍事同盟なのだから助けて当然ではないかと言ってやるのが集団的自衛権というものです。そういう意味で集団安全保障と集団的自衛権というのは全く異なるものなのです。国連というものをモデルにして言いますならば、片方が国連の行動であるのに対して、片方は国連の外でわずかな国がやる行為です。だから、どっちに参加するのも同じようなものではないかというのは大間違いで全然違うのです。
 集団的自衛権というのは、ちょっと脱線しますが、これは国連憲章がつくられるときに、最後に1945年の4月から6月までアメリカのサンフランシスコで国連憲章の起草会議というのが開かれたのですが、そのサンフランシスコ会議が開かれるまで集団的自衛権という言葉は国連憲章には書かれていなかったのです。どういうものがあったかというと、ちょっと変な言葉なのですが、地域的取り決めということが決められていました。地域的な安全保障機構というのはつくっていいだろう。それが国連安保理の許可を受けて、地域のための武力行使をするということがあっていいだろうということを決めていたのです。それが最大の取り決めだったわけです。ところが、それがサンフランシスコで討議され始めて、これではちょっとまずいぞということを言い出した国があらわれた。それはラテンアメリカの国々です。南アメリカです。南アメリカの国々がこういう地域的取り組みを決めているものだけに頼っていたら、例えば我々が、ラテンアメリカの国々がヨーロッパの大国から侵略を受けたような場合に、他の国がその侵略をした国にお仕置きをすることに拒否権を行使したら、我々何もできないじゃないか。だから安保理の許可を得なくても自分たちで、グループで武力行使ができるような規定が国連憲章の中に欲しいということを言い出したわけです。それでどうするかということで、出てくるのがこの集団的自衛権という言葉なのです。突然出てくるわけです。この辺の話もさっきお話しした私の本に経緯が書いてありますので、できたらそれを読んでいただきたいのですが、ラテンアメリカの国々はそういう要求をするのに対して、アメリカを含めて5つの大国は本当に困るわけです。どうしたらいいかと。今ようやく国連憲章ができ上がろうとしているのに、安保理の許可なしで武力行使ができる、グループで武力行使ができるという規定をつくってくれと言っても困るではないかということをみんな考えるわけです。
 どうしようかと考えているときに、有名な人ですが、後でアメリカの国務長官になったダレス(John Foster Dulles)という人がいますが、冷戦のときにアメリカ外交を切り盛りした立て役者ですけれども、この人がそのときにアメリカの代表団の一人として参加していて、そのときに彼がサンフランシスコに至るまでの経過の中でつくられてきた国連憲章の原案というものをじっと眺めて、あることに気がつくのです。それは何かというと、これまでつくられてきた原案の中では、この国連憲章の原案の中では、国々が自衛権を行使してはいけないということはどこにも書いていないということに突然気がつくのです。つまりそのときまでに自衛権ということは、国連憲章の原案の中ではどういう形であれ、全く触れられていなかった。触れられていなかった理由は単純でして、自衛権というものは国連憲章で書こうと書くまいと、国際法上の慣習法としてみんなに認められている。だからわざわざ自衛権を加盟国は行使しても構わないなんていうことを書く必要はないと考えられていたわけです。新しい規定を国連憲章の中に設けるとすれば、国連の加盟国は自衛権の行使と言おうと何と言おうと武力行使をしてはならないという規定を設けるかどうかだけだった。ただ、それはやはりその当時としては、時代の先を行き過ぎていますから、そこまでやることはできなかった。誰も自衛権のことは何にも言わないで原案をずっとつくっていて、サンフランシスコでその大きな問題があって見てみたら、自衛権という言葉がないぞ、やってはいかんということも書いていないし、やれとも書いていない。ならばやれと書こうよということで、突然そういう規定が国連憲章の中に放り込まれるのです。これが今の国連憲章では、51条になった有名なあの自衛権についての規定です。その中に、自衛権という言葉を書いていくわけですが、その自衛権という言葉にくっつけて個別的あるいは集団的自衛権という言葉にしてしまうのです。そこで集団的自衛権を行使していいということになったら、ラテンアメリカの国もこれで安心するだろうということで、そういうゴタゴタの中で突然放り込まれた規定であったわけです。
 個別的自衛権というのは、そんな言葉もそれまでほとんどなかったのですが、どの国も自衛権を行使できるというのがそれまでもあったのですが、集団的自衛権という言葉は、それまでの国際法にはなかった。グループがまとまって自衛権を行使するという考えがもともとあったわけではなくて、そのときに、そういういま言ったような偶発的な事情で突然国連憲章の中に放り込まれたものなのです。
 ということで、実はこの集団的自衛権というものができてきた経緯というのは、大変おもしろいのですが、何にせよ言いたいことは、集団安全保障と集団的自衛権というのは違うものなのだから、日本もこれから進路を選ぶときに、どのタイプの活動に対して、どういう形で加わるのかということをちゃんと国際法上の根拠、憲法上の根拠、両方とも突き合わせて考えていかなければならないということです。どれもこれも同じだから、適当でいいではないかというわけにはいかないのです。
 
 
【憲法の安全保障と国連の安全保障;相違点と共通点−集団的安全保障=「目には目を】、憲法=それを否定。しかし共通点;武力行使の禁止(国連憲章の核=2条4項)
 最後に簡単に、日本国憲法が考えている安全保障の方式と国連の安全保障の方式というのは、似た面もありますし違う面もあります。その仕分けもきちんとしておこうということです。まず国連の集団安全保障の話からしますと、国連の集団安全保障というのは、武力行使をする国があらわれたら、それに対しては国際社会全体が武力行使をもって応ずると。つまり目には目をという哲学でつくられています。ただそれを一国同士でやり合うのではなくて、悪さをした国に対して国際社会全体が国際社会全体の意思で処置をする。これが国連の集団安全保障の考え方です。
 それに対して日本国憲法の考え方は、目には目をという考え方を否定したものです。やられたらやり返してやるぞということは言っていない。我々はやり返さないし、そもそもやられないようにそのための努力をするのだということが日本国憲法ですから、その意味では国連の集団安全保障と日本国憲法というのは、根本的に違う点があるわけです。ただ、そうは言いながら日本国憲法は、国連の集団安全保障に自国の安全を委ねるのだ、他の国の公正と信義に信頼するということも言っていますが、それと同時に現実的には国連に委ねるのだと言っていますが、実は憲法が否定していることを国連憲章が肯定している。憲法の手に余ったところは国連の集団安全保障に任せようということを決めているのが、この二つの法律の関係なのです。そういう目線では違いがある。ただよくその違いだけが言われるのですが、私は日本国憲法と国連憲章を並べて考えるときに、その二つの間に大きな共通点があるのだということをもっともっと認識しなければいけないと思います。共通点というのは何かというと、日本国憲法も国連憲章も、武力行使を否定するということが大原則になっているということです。
 日本国憲法については、これはもう言うまでもないだろうと思います。9条1項、2項で武力行使をしない、交戦権を持たないということを言っているわけですから、これは日本の自身についてですが、私たちはもう武力行使はしません、あるいは武力による威嚇もしませんということを言っています。
 国連憲章も国連憲章のこれ最大の規定の一つだと言っていいと思いますが、国連憲章の2条4項、第2条第4項というものが、武力行使と武力による威嚇というものを加盟国に対して禁止しているのです。これが国連の安全保障の最も根本的な原則です。もう武力行使は国際社会では違法になったのだよ、だからしてはいけないのだよというのが国連憲章の大原則です。にもかかわらず国連憲章では、加盟国の軍備を全部否定するというところまでいきませんでしたから、軍備をみんなどこの国も持っている。持っていればそれを使う国が当然出てくるということで、国連憲章2条4項でそう決めたにもかかわらず、武力行使が起きてしまうという現実があるのが問題なわけです。そういう問題なのですが、何しろ大原則としては武力行使を禁止しているのだということ、その点は大きな共通点としてあるということをよくわかっておかなければいけないだろうと思います。
 
 
【いま起きていること−「集団安全保障は当てにならないから有志連合で」という方式。国連自体が動揺;「国連のための改憲」は必要ない】
  いま、それでは二つの文章を我々は日本国民ですから日本国憲法を持っていますし、また国連加盟国の国民ですから国連憲章も我々は持っているわけですけれども、その二つがいろんな形で交錯しながら今日の日があって、それでその中で今起きていることは何かというと、日本でこの2年間行われてきたことは、さっきも言いましたように国連の集団安全保障は当てにならないからというのは、これは小泉さん自身が言ったことです。国連というのは当てにならない、あれが助けてくれるわけではないということを彼ははっきり言いましたから、国連は信頼していないのだろうと思います。この国連の集団安全保障は当てにならないから軍事同盟で今後は武力行使をしていく、有志連合でやっていくのだという方式が今日本でもジワジワと蔓延っているのだろうと思います。それはそういう政治の流れなわけですが、それに対しては賛成、反対、いろいろあると思いますが、一つだけどうしても賛成できないことは、いま起きていることが国連の安全保障の仕組みを育てるためにやっているものでは全くないということです。それだけはわかっておいていいだろうと思います。国連自体が動揺しています。国連の集団安全保障というけれども、これ自体が2年前にもう痛烈なボディーブローを食らってフラフラしてしまっている。もうなくなってしまうのではないかとまでアナン事務総長は心配しているわけです。動揺をしているわけですから、その集団安全保障を立て直すということは、これはアナン事務総長が言っていることですけれども、こういう違法な武力行使をしている国が、一刻も早くそれをやめることだ。それが国連の集団安全保障体制を立て直すことだということになるわけですから、それをやらないで国連軍に積極的に兵力を送るために改憲をしなければならないという議論がちらほら聞こえてきますが、これは国際社会の文脈の中ではほとんど何の根拠もないし、意味もないことだということなのです。これは憲法のどの部分をどれだけ改正するかということは、それとは別に成り立つ問題ですけれども、国連のためのというまくら言葉がつくのであれば、それはほとんど根拠がない、そういうことなのだということはわかっておいていいだろうと思います。
 それではだいたい時間になりましたので、以上でやめさせていただきます。どうも長い時間、ありがとうございました。
 
 
− 質 疑 応 答 −
 
<質問>
 先生のレジュメを見ると、9番目のところのお話なのですが、国連の改革に関連して、この3月に出されましたアナン勧告の評価と今後の見通しということを教えていただきたいと思います。私個人は、昨年のハイレベル委員会に報告が出たときには、もう一回アメリカの単独行動主義から国連中心の集団安全保障体制をどう再構築していくのかという非常に前向きな方向が出されているなと思ったのですけれども、どうもアナン勧告を見ていると、アメリカのボルトン新大使の思惑も含めて、どうなっていくのかが、無条件に評価していいのかどうなのか迷っているところなのです。その辺をもう少し補足してお話ししていただけると思います。
 
<最上>
 3月のアナン報告というのは、実は相当多岐に渡ったもので、日本ではこれはマスコミの責任も大きいと思うのですが、何かあの報告が安保理の常任理事国をどうやって増やすか、どういう方式でやるかというだけのことをそれを最重要点として扱っているかのような伝え方がされるものですから、そういうふうに理解なさっている方も多いと思うのですが、あれは決してそうではありません。まずは国連の機能強化をするということが、あの報告の最大の課題なわけです。その中のトップバッターの項目は何かというと、貧困問題の解決です。欠乏からの自由というタイトルがついていますけれども、今のこの世界のひどい貧困の状況をどうするかというのが最大の問題で、それを解決しなければ、あちこちでまた地域紛争などが起きるだろうという考えがあるわけです。そういうことを全部考えた上で、その中の一つの改革課題として、国連安保理の常任理事国問題、あるいは準常任理事国問題というのが出てくるという話です。そのことをまず忘れてはいけないと思うのです。
 その文脈を踏まえて言うことなのですが、そもそもはハイレベル委員会、去年の12月に諮問を出したハイレベル委員会というものをアナン事務総長がつくったときには、アメリカの単独行動主義戦争に対する危機感が最大のきっかけだったわけです。決して安保理の常任理事国になりたいと国が言っているから、それに答えるためにハイレベルの諮問委員会に検討してもらいましょうと言って、緒方さんとかああいった方たちを委員会に駆り出したのではないんです。いま国連の集団安全保障体制というものが、屋台骨を揺さぶられている。単独行動主義がはびころうとしている。国際社会の法の支配が脅かされようとしている。力の支配が跋扈しようとしている。これをどうしたらいいか、それを考えてほしいと言ってあのハイレベル委員会の設置になって諮問を仰いだということです。それを一応ハイレベル委員会もやったのですが、ハイレベル委員会自体がいつの間にやら安保理の常任理事国の数をどうするかという問題にややからめ取られてしまったところがあって、アナンさんも何度も何度も聞かれているうちにそうなってしまったのかもしれませんが、今度の彼自身の報告の中でも、本当は安保理の常任理事国の問題というのは、最も彼の頭の中の大事な問題ではなかったはずなのに、何だか聞かれているうちにそれに対する答えが多くなってしまう。それでハイレベル委員会が出した二つのA案、B案というもののうちどちらかに早くした方がいいのではないかということを彼が言うようになってしまったということです。そういうことをやっているうちに、やや彼自身が本当はもっと別なことを考えていたはずなのに、国連改革というものの焦点がやや別のところに移ってしまったのではないか。その意味では実はあの報告書はややピンぼけです。彼自身が考えていたことと比べてもピンぼけですし、今の国際社会のありようから考えてもややピンぼけです。
 もう一つは、これはよく言えば、彼がアメリカと和解もしなければならないと考え始めたかなということも言えると思うのですが、つまりこの2年間アメリカを真正面から批判して、アメリカもまたもうアナン嫌いが始まって、アナン下ろしまで始まっている。その中で、多少はアメリカも気に入るようなことを言って、アメリカと和解するきっかけをつかみたいということが明らかにあの報告書の中にあります。それは例えばどういうところに出ているかというと、テロとの戦いというようなことを今度の報告書で彼が強調したということです。これは、テロとの戦いということを事務総長が強調すれば、国連加盟国はみんなそうだ、そうだと言ってくれるかと思ったら、それは全然そうではなくて、もう火中のクリを拾うようなやっかいな問題なのです。つまり国連加盟国の中のかなりの部分の国が、テロとの戦いという言葉を聞くと、そんなことを言うけれども、テロを世界的に最も大規模にやっているのはアメリカではないかということを言う国が国連加盟国の中では少なくないのです。アメリカがアフガニスタンでやったり、リビアでやったり、スーダンでやったり、あるいはイラクでやっていることは、あれは国家がやっているテロではないかという批判をする国が国連の中には少なくない。その国は一斉に今回反発しました。つまりアナン事務総長は、その国家テロという問題はもう棚上げにしよう、そういうことに関わっていないで、テロとの戦いということを国際社会全体の問題として考えようではないかということを言ってしまったものですから、先週来の国連総会の討議の中では、アナン報告のその部分に対する批判というのは非常に強いです。アナンさんとしては、アメリカとの和解ということを考えると、そういうある種のリップサービスをアメリカに対してもしなければいけなかったという点でも、彼がこれまでとってきた立場とはやや揺れているといいますか、そういう面もあるだろうと思います。その意味では、これまでの流れを知っている人間であればあるほど、今回のアナン報告というのはややわからないなというところが出てくるだろうと思います。
 
<質問>
 先ほど先生の方でお話しいただきました2年前に始まってイラク戦争の件ですが、それより前にユーゴの空爆をNATOがやったわけですが、当時ドイツは日本と同じように再軍備をずっと制限されていまして、域内から出ていくということについては憲法違反ではないかという論議があって、今の日本の憲法の特徴に似ている過程をとっていきますが、結局NATOは空爆して、当時、明石さんが非常にそれについて反対していたといういろいろ経緯がありまして、ちょうど今回ドイツがイラクに反対しているのですが、当時のNATO空爆に対してはドイツが賛成していくような過程があって、ちょっと矛盾を感じていたのですが、当時の明石さんのことも含めて先生のご意見を伺えればなと。
 
<最上>
 明石さんが反対なさっていたのは、あの1999年の空爆のときではなくて、1994〜5年の頃のボスニア・ヘルツェゴビナの内戦のときです。あのときに事務総長だったブトロス・ガリさんも武力行使には慎重だったし、明石さんはそれ以上に慎重だったのでやらなかったというケースで、いまおっしゃっているのは、ドイツが参加したというのは1999年のコソボで人権侵害が起きたときに、NATOが空爆をした件です。あの件と今回ドイツが反対したということが矛盾しているかと言われると、それは全然矛盾していないだろうと思います。あの1999年のときにドイツが、実際にはほぼ非戦闘任務だったのですが、あれに参加したのに今回参加しないというのは、参加した、しないの違いはありますが、根拠が全然違うのです。1999年のときにNATOが空爆をしたことの根拠は、コソボで激しく人権侵害が行われている。迫害や拷問や虐殺が行われているから、それを救うためにやらなければいけないのだというのがNATOの根拠だったわけです。我々が言うところの人道的介入と呼ばれるものなのですが、実際には人道的介入というのは、これまた国際法上の根拠としては相当あやふやなものですから、NATOは最後までこの言葉を使っていないのです。うっかりベルギーだけがその言葉を使ってしまって、他の国が何となくしかめ面をしていたということがあったようですが、こういう厄介な言葉は使わないけれども、言葉は使わないにしてもNATOの国々の大部分は、コソボで迫害にあっている人たちを救うためなのだということだと思うのです。ドイツの中でじゃあそれに対してみんなやれやれと言ったかというと、おっしゃった通り反対論が非常に強かったのです。数だけで言えば、むしろ過半数が反対だったろうと今でも言われているぐらい反対が強かった。にもかかわらず政府が賛成の決定をしたというのは、やはり虐殺というものに対するドイツの負い目なのです。虐殺をドイツ自身がかつてやった。酷い虐殺をやって、それをどこかで償わなければいけない。償いの形の一つとして、いま目の前で虐殺が起きていたら、それを防ぐということがあるだろうという議論がドイツの中では随分強かったわけです。それは本当にかつての償いというのはそういう形でしなければいけないのかどうかというのは、どうもはっきり、すっきりしないところもあるのですが、何しろドイツでは人道を重んずるというのは、ドイツの戦後政策の根幹であるはずなのだから、今コソボでNATOがこういう行動を起こすときにそれに加わろうということで、政府が決定したということです。
 それに対してイラクの場合には、最後にイラクの人間たちを救うためだと、いろんな根拠はつけ足しになりましたけれども、もともとは大量破壊兵器を隠しているから、それを48時間以内に使うかもしれないからというような話が出てきたので、それは違うということを国連の機関のトップたちが言いましたし、それをドイツも支持して、フランスと同調してアメリカの言っていることは根拠がないのだから、これは武力行使をする場合ではないのだという理由で反対しているわけです。ですからケースが全然違うわけで、1999年と2003年とでは、ドイツがやったことは決して矛盾してはいない。ただ99年の空爆が無条件によかったのかというと、それはまた別問題です。やり方の問題もありますし、結果の問題もあって、あれはあれで様々な問題を残しましたが、2003年の対イラク戦争とは、一応形の上では違うものだと考えた方がいいかなと思います。
 
<質問>
 民主党の一部、多くといった方がいいかもしれませんけれども、かなりの方々が集団安全保障を位置づけた上で国連中心主義だというふうにおっしゃっている方が多くいると思うのです。けれども本日の先生のお話ですと、国連の集団安全保障は理念的にはいいけれども、現実的ではないよというお話に聞こえました。そこで、確かに小泉政権に対する反対勢力として、国連改革を民主党が真剣にやって、そしてかつ国連中心主義にしていくのだ、集団安全保障を確立していくのだというふうに腹をくくっているのであればいいのでしょうけれども、そうあまり思えないのではないかと私は思っています。
 そこで先生は、そういった民主党の方向性というか、今の論調に対してどうお感じになっているのかということと、そしてあるいはそれに対してこれから民主党はこういうふうにしていったらいいのではないかということをお伺いしたいと思います。
 
<最上>
 本日いちばん難しい問題だと思います。実は、私は答える能力ありません。民主党といっても、どうも何か随分幅の広い政党のようで、片っ方の端の人ともう一つの片っ方の端の人と言っていることが全然違うものですから、何が民主党であるかというのは実は私の中に認識が全くなくて、民主党を名乗っている人がいっぱいいるのだなということだけはわかるのですけれども、党としての政策とか理念とかというものは、どうもまだ決まっていないのではないか、これ国連以上に非常にやわな状態で、発展途上党なのではないか、これからますます希望を持って頑張ってくださいと言うぐらいしか言いようがないのです。ですからもうちょっとしっかりと勉強をして、何が本当のことで、それに対してどう望むのかということを責任政党ですから、政権をとる可能性のある野党なのですから、国民に対してしっかりと示していただきたいというのがまず最も言いたいことで、それ以上のことは大して言えないということです。
 ただ、今ご指摘いただいた、もう事態がぐちゃぐちゃですねということをご指摘なさっているのは非常によくわかって、私もその点全く同感なのですが、国連の集団安全保障に対する評価で、最初おっしゃったことがちょっと違うかなという気がするのです。
 つまり私が言ったのは、理念としてはいいけれども、現実的にはだめだと言ったのではなくて、理念は一応欠点はたくさんあるけれども、理念としてはつくられていると。ただ、それが現実的に使われるようになった場合には、どういうふうに使われるのかが実はほとんどまだわかっていない。朝鮮戦争の例があるけれども、たぶんあんなふうにはいかないだろう、別の使われ方をするのだろうけれども、ただいかんせん実例がないものだから、国連の集団安全保障と言われてもよくわからない。わかるものがあるとすれば、南アフリカやそれからセルビアやイラクに対してやったような、非軍事的な強制行動はこういうふうにやるんだと、これだけの効果があるのだということはわかります。でも軍事的な方はよくわからないので、国連の活動にやろう、やろうと言っても、何に加わろうとしているのですかという、そういう反応しか今のところ出しようがないということです。
 それでいま考えておかなければいけないのは、国連の集団安全保障というのは、一応法文上の規定というのはわかったけれども、実はとても大きな欠陥があるものなのだということ。その欠陥を少しでも直せないかというのが、今の国連の集団安全保障の課題なのです。これは何かというと、まさに第2次世界大戦が起きたときと同じなのですが、主要な加盟国が武力行使をどんどんやり出したら、国連の集団安全保障というのは、それを押さえるすべを持たないということなのです。これをどうしたらいいか。国際連盟が失敗したというのは、そもそもそれだったのではないか。国際連盟の中の大国中の大国だった日本やドイツやイタリアが次々と戦争を始めたら、国際連盟は何もできなかった。あれを何とかしなければと言って国連をつくったはずだったのに、今の国連もアメリカが随分武力行使をしましたし、ソ連もかなりやりました。アメリカより回数は少ないですが、それでもソ連もかなりやった方で、ロシアになってからも一、二あります。こういう大国がやったときに何にもできない集団安全保障というのは、やはり欠陥があると考えるべきでしょう。これをどうするか。ものすごい難しい問題です。アメリカにもみんなで戦争しかければいいではないかと言うかもしれませんけれども、そんなばかなことやる国はありません。みすみすやられることわかっていて、進め、進めということをやるわけがないので、そういう問題をどう解決するかというのが簡単には答えは出ないけれども、放っておくわけにいかない国連の集団安全保障の大きな課題なわけです。だから国連の集団安全保障でやろう、やろうというのは、多少なりとも国連のことを知る私のような身の者にとっては、本当に想像を絶するぐらい無責任な意見です。もっとよくしましょうという、そこから始めなければいけない。