第2回憲法講座
札幌厚生年金会館
2005年4月16日
 
「国会・憲法調査会での議論状況と民主党の考え」
 
                 衆議院議員(党憲法調査会会長) 枝 野 幸 男
 
【客観的に5年間の調査結果を報告した憲法調査会報告書 − 議論のスタートライン】
 ご紹介をいただきました民主党でいま憲法調査会長を務めております枝野でございます。本当にグッドタイミングといいますか、昨日、国会の衆議院の方の憲法調査会の方で私は会長代理を務めておりますが、5年間の調査報告書を議決しまして、中山太郎憲法調査会長から河野衆議院議長にその報告書を提出したところでございます。昨日の夜のニュースと今日の朝刊、各社とも大きくこの内容を取り扱っていただいております。
 まず、こちらの衆議院憲法調査会、そして参議院の方も来週には同じようなことが行われますが、こちらの方のお話をまずは少しさせていただこうと思いますけれども、憲法に関する広範かつ総合的な調査を行うということで、衆参両院に5年前、2001年の1月スタートで憲法調査会が設置をされました。様々な議論・調査をこの5年間やってまいりまして、調査報告書がまとまったということでございます。若干報道機関、何度言ってもうそを書くので困っているのですが、この調査報告書は、今日お集まりいただいている皆さんですからご関心が高いだろうと思いますので、新聞に載っているあらまし等をお読みになってきている方もいらっしゃるのではないかと思いますが、集約の時点で各党で何か意見の調整をして、どの党がこういう意見で押し込んだとか、どの党がこれでは困るから違うことにしてくれとか、そういうふうな調査報告書ではありません。単純に5年間の行われた調査の結果を客観的に報告をする中身であります。5年間に行われたこと、そして特に議員同士で議論がされた各議員の意見を、ただ何月何日に誰が何を言ったという議事録をホッチキスで止めたような話では、読んでもわけがわかりませんから、事務局の方で論点ごとに各議員の発言を整理して、類型化をして、そしてそれを報告書にまとめたというものでございます。私も民主党を代表して幹事会のメンバーでありますけれども、各党が我が党の意見はこれと違うからこんなことを書かないでくれとか、そういう議論をしてまとめたものではありません。
 いちばん典型は、実は自民党の憲法調査会が、今行われている議論では憲法裁判所は否定するという議論を小委員会の集約としてしたそうですけれども、衆議院の憲法調査会の調査報告書では、自民党の議員の方もたくさん憲法裁判所が必要だと言っておられたので、調査報告書の国会の方では憲法裁判所をつくるべきだという意見が多数であったという集約になっています。各党が議論をしていることと全く別次元で、客観的にこの5年間の議論を整理したということにとどまっております。
 非常にすごいなと思ったのは、我々仕事柄全新聞をとっているものですから、読売新聞は「これで9条が改憲の方向で動き出した」と、朝日新聞の方は「一定の方向が示されなかった」という同じ調査報告書に対して全く違った大見出しが立っているというのが、昨日の報告書に対する結果です。
 半分そうなるのもしようがないのかなと思っています。まさに何かを国会で決めたということではなくて、いま申し上げた通り客観的な今までの発言を整理し、ただ多かった意見も少なかった意見も並列で並べたのでは何だから、たまたま一つの意見を言う人が全体の3分の2を超えていたら、その意見については多かったと書こうと、あるいは一つの論点について、すべての発言が同じ方向を向いていたら、ほぼ一致をしたと書こうということを客観的にやったことにすぎないわけでありまして、私はこの調査報告書は、もしこれから憲法の議論を本格的に進めていくのであれば、その議論を進めるに当たっての論点の所在と、その論点についての大まかな国会内における意見の分布を示したものにすぎない。そのスタートラインにすぎないと位置づけるのが正しいのではないかと思っています。ただ、こういった整理自体がなされたこと自体が初めてのことでありますから、憲法の議論を建設的に進めていくとすれば大きなスタートラインにはなるだろうと、こういう位置づけをするのが正しいのではないかと思っています。
 
【民主党は創憲 − 憲法を国民の手に取り戻す】
 この後、憲法調査会、国会の方がどうなっていくのかということはまだ決まっていませんし、話の流れとしても、一番最後のところで時間があればその点はお話をしようと思いまして、では民主党は憲法について「創憲」と言っているけれども、何を考え、何を議論しているのかということでございます。
 民主党は昨年の夏前に、党としての憲法調査会の中間報告をまとめて発表をいたしております。資料としてコピーをとって配ってくださいと言おうと思ったのですが、それをたたき台というかスタートラインとして憲法提言というものをまとめようという、その議論がかなり深まってきていますので、今の段階で1年前のものをお出ししてもというふうに思いましたので、今日はそういうお願いはしておりません。
 民主党としてはいま5つの小委員会ごとに議論を、昨年の中間報告をもとに進めていまして、この国会の会期中ぐらいには一つの集約をしたいと思っています。一つの集約をした上でこの夏から、夏からというのは、今日のようにこうやって地元主導でこういう会を開いていただいているところはいいのですが、党本部の方からも各地にお願いをして、全国で国民有権者の皆さんに民主党はこんなふうに考えているのですけれども皆さんどうでしょうか、皆さん一緒に考えましょうというキャラバン、キャンペーンをやりたいと思っています。そのときに何もなく白紙で皆さんどうでしょうかというのは議論も煮詰まらないということもありますので、その段階で一応我々はこう考えていますがというボールを投げる、そのボールを今仕込んでいるというところであります。
 中身の前に、私はまさにその夏以降の話が、憲法について民主党がこれから一番大事にしなければならないと思っていますし、民主党に限らず国会全体としても一番大事な仕事だと思っています。それは、憲法の改正は国会議員が当事者ではないということです。言うまでもなく、憲法の改正には国民投票で過半数の賛成が必要です。法律は国会が決めることができます。法律を決める当事者、責任者は国会議員です。場合によっては間接民主制の意義として、国民の皆さんが反対をしていても、国会議員としての責任に基づいて国民の皆さんの反対を押し切っても法律をつくるということは、時としてあるかもしれないと思います。しかし憲法だけは国民の皆さんが決めると。国会に与えられている権限は、国民の皆さんに判断を仰ぐという発議をすることにすぎません。ですから、憲法改正の当事者は国民有権者全体であります。
 新聞論調などではいろいろなことを書かれていますが、私の理解では、憲法に対する国民の皆さんの関心は高くないと思っています。世論調査をすれば、まあ関心あるかなと答えるような層が多かったりしますが、体感・実感として、憲法の話は、国民の恐らく全体で多く見ても2割から3割ぐらいの人は非常に熱心だけれども、残りの人たちはほとんど関心がない。特に例えば年金とか税とか経済とか雇用とかという問題と比べると、関心が大幅に低いというのが今の現状だと思っていまして、こういう状況の中ではどうするにしたって憲法の話は進むはずがない。まずは国民の皆さんが当事者として憲法を主体的に考えていただくということが必要であって、そのことを喚起する責任は国会にはあるのだろうと思っていますので、その上で国民の皆さんがどう判断されるかということだと思っております。
 
 
【憲法とは公権力行使の権限を主権者が与え、かつ制限を加えるもの】
 いま申し上げたことは、実は民主党が憲法創憲ということで何を考えているのかということにつながっている話であります。中間報告の中でも「憲法を国民の手に取り戻す」という表現を何度も使っております。2回目の会ですし、憲法にご関心のある方にこうやってお集まりいただいているのですから蛇足かもしれませんが、憲法とは何かといえば、公権力行使の権限を主権者が与え、なおかつそれについて制限を加えている法であります。 国家の基本法であるというのは、半分正しくて半分間違っています。公権力行使についての基本法であります。私が国会議員として権限を行使しているのも、憲法によって国会は唯一の立法機関であるという権限を与えられているからであり、小泉純一郎という人が内閣総理大臣としての権限を行使しているのは、憲法によって行政権は内閣に属すると定められ、憲法に基づいて、憲法に書いてある手続で内閣総理大臣に指名されているからに他なりません。公権力、具体的にいうと行政・司法・立法の権限について、本来その権限を持っている主権者が誰にこの権限を委託するのかを定めた法が憲法であり、委託するに当たっては白紙委任ではなくて、こういうルールの中で、こういう幅の中でおまえらは公権力を行使しろと。それを定めているのが憲法であります。
 ですから国会議員が自分たちだけで憲法を変えるということは許されていないということに論理必然的になってくるわけでありまして、そもそも憲法の名宛人、つまりいろんな法律はいろんな人たちにこのルールを守りなさいということを命じているわけで、例えば自衛隊法だったら自衛隊員の皆さんに自衛隊法を守りなさいと命じているわけです。刑法や民法は一般すべての国民に対してこの法律を守りなさいと命じているわけですし、例えば警察官職務執行法というのは警察官の人にこういうルールを守りなさい、裁判所法というのは裁判所の人たちに守りなさいと命じているわけですが、憲法というのは、国民主権者が国会議員や内閣総理大臣や大臣や裁判官などを含めた公務員に対して、このルールを守りなさいと命じている法。我々はまな板の上のコイであると、これが憲法ということの本質的な意味であります。したがって、主権者のもの、国民のものでなければならないということになります。
 
 
【憲法の形骸化・空洞化】
 そういう前提のもとで今の日本国憲法を見詰めたときに、二つの意味で少なくとも議論が必要であると位置づけています。
 一つは、憲法が形骸化・空洞化をしていて、国民のものになっていないということです。一番典型的なことで言われるのは、まさに9条の問題かもしれませんが、憲法と実態が分かれてしまっているではないか、食い違ってしまっているではないかという議論がなされています。
 すごいなと私は思うのですが、憲法について、特に9条と自衛隊のことについてハト派、タカ派両方からめちゃくちゃなことが言われていまして、片方は今まで自衛隊法に賛成をし、自衛隊の予算などにも賛成をしてきた人が、今の憲法では自衛隊は憲法違反の疑いがあるから自衛隊を憲法に明記をしなければいけないと堂々と公権力行使をしている国会議員などが言っている。おまえは憲法に違反している組織に対して予算をつけてきたのかと。 少なくとも自衛隊、つまり一度たりとも予算に賛成したことある国会議員は、自衛隊が憲法違反だなどと言えるはずがないのです。憲法で自衛隊は憲法違反だと命じられていると信じるならば、その予算に絶対反対しなかったら、だから自衛隊予算を含む予算に賛成を一度でもしたことがあるということは、自衛隊が憲法違反の疑いがあるからだめと言ったら論理矛盾も甚だしい。
 一方で、自衛隊は憲法違反だけれども当分の間は維持すると。これも主権者である国民が言うのだったらともかくとして、国民から憲法によって枠をはめられている、憲法という法を命令されている公権力行使の側、国会議員などが堂々と憲法には違反するけれども自衛隊法は廃止しないと。では憲法は何なのだという話になって、どっちも憲法を無視している、形骸化させていると言わざるを得ないと私は思います。
 これが一番極端な形骸化の例でありますが、さらに言うと、例えば昨年イラクの自衛隊派遣について、イラクに暫定統治機構ができた瞬間から、イラクに駐留する各国の部隊は多国籍軍という位置づけになりました。歴代内閣は、自衛隊は多国籍軍には参加できないと言い続けてきました。ところが、イラクに暫定統治機構ができてしまった瞬間に、イラクに駐留する自衛隊は多国籍軍の一要素ということにならざるを得なくなったのを受けて、内閣法制局という頭のいい人たちが、何やかんやといろんなへ理屈をこねて、だけれどもこれだけはいいのだという理屈を生み出して、憲法違反ではないということを言い出しました。
 私自身は法律家、弁護士でありますし、大学では憲法を専攻していた立場として、法律論として憲法の解釈が時代によって変遷し得るということを否定する立場ではありません。時代によって憲法の解釈が変遷し得るということは十分あり得ると思います。
 例えば新しい人権、環境権とか、知る権利とか、60年前は想定されていなかった人権は、時代の変化に応じてそうした権利が憲法上の人権として位置づけられてきているということなどもありますから、憲法の解釈は時代によって変遷するということは論理的にあり得ると思います。
 それから内閣法制局の解釈というのは、しょせん一行政機関というか内閣の憲法判断にしかすぎませんから、内閣法制局の憲法解釈に国民が縛られるいわれはないと思っています。しかし、同じ内閣が継続をしている、同じ自民党政権が継続している中で、それまで多国籍軍参加は憲法違反で許されないと言い続けてきて、その間はこうした例外がありますだなんていうことを一度も言ってこなかったにもかかわらず、ある日突然必要性に迫られて、その解釈を事実上変更するということが昨年行われました。この手のことが何度も何度も繰り返されています。明らかに憲法9条は空洞化・形骸化をさせられているという実態は間違いがないことだと思います。
 自衛隊を認めるならば、自衛隊が何をどこまでできるのか。今日の前段は国際貢献のお話だったそうでありますけれども、国際貢献をするなら何をどこまで許されるのか、それはまさに公権力行使の限界ルールを定めるという憲法そのものであります。しかも、公権力行使の中で最も強力な公権力の行使がいわゆる自衛権、有形力の行使でありますから、警察力の行使に並んで、あるいはそれ以上に重要な公権力行使のルールが自衛隊が何をどこまでするのかということによってありますが、そのことについて憲法を遵守することが義務づけられている。憲法によって命令を受ける側である行政が、そのときの都合都合によってその限界を自由に広げたり狭めたりできるというのでは、憲法としての意味を持っていないということになり、憲法が国民のものになっていないということであります。
 憲法としての意味を持たせるためには、いかなる内閣であろうと、国会がいかなる構成になろうと、常にその憲法で与えられた限界の範囲内でしか公権力は行使できない。憲法で認められた範囲の中でしか、例えば自衛隊は行動できないということを定めるのが憲法の意味でありますから、それが内閣法制局という一行政機関のその都度その都度の応用動作で伸縮自在になるということでは、憲法としての意味を持っていないと言わざるを得ないということであります。
 従って私たちはこの憲法の形骸化・空洞化、これは9条だけではありません。よく言われている話は私学助成金の話です。憲法には公の支配を受けない教育に公金を支出してはいけないと明文が書いてあります。ちなみに私、大学で憲法が専攻と言いましたが、私の大学の憲法ゼミのゼミ論文は私学助成金は違憲であると。法解釈論としては、どう読んでも私学助成金というのは公の支配を受けない教育に対する支出であると思います。逆に言えば、公の支配を受けている私立学校はあっていいのかということに私はなると思います。出ていくお金のことについて、一定の管理しているのがいいのだとかいろんなへ理屈をこねていますが、そうはいっても私学助成金が明確に法解釈上としては違憲としか読めない状況の中で、実態として私学助成金が存在をしている。やり方は二つに一つしかない。私学助成金を廃止するか、公の支配の及ばない教育に対する公金の支出を禁止している憲法の規定を改正するか、どちらかにしなければ、憲法の形骸化・空洞化という状況が継続をしていくと言わざるを得ないということであります。
 こういった形骸化・空洞化の状況をしっかりと認識をして、しっかりと国民の手に取り戻すということが今の時代状況の中で必要であろうというのが、今憲法を議論しなければならない一つの大きなポイントであるというふうに思っています。
 
 
 
 
【中央集権が基本の我が国憲法】
 もう一点、別の視点から、憲法を議論しなければならないポイントがあると民主党は考えています。これは人によって表現の仕方が違いますが、私は明治維新以来のと思っていますけれども、この国の統治のあり方の前提になるべき社会構造が変わったということです。私は札幌でも分権の話をしにきたことが以前にもございますが、そういう分権などの話です。
 日本は明治維新のときに西欧の近代文明に触れて、国家として富国強兵・殖産興業、要するにアメリカ・ヨーロッパに追いつけ、追い越せという国家的命題を打ち立てました。その国家的命題を実現するための富国強兵・殖産興業の手段として、中央集権、官僚主導国家をかなりの強引な力でなし遂げました。その結果として、途中第2次世界大戦によって富国強兵・殖産興業のうち強兵の部分で挫折をして、一たん振り出しに戻ったかのように見えましたが、富国・殖産興業の部分について戦後恐らく40年ぐらいのところで、恐らく明治維新のときに目標にしていた欧米に追いつき追い越すということが実現をされました。
 中央集権、官僚主導国家という国家体制を、つまり公権力のあり方を明治維新のときにこの国が選択をしたのは、先人たちの賢明な選択だったと私は思います。モデルとなる欧米先進国がある。そのモデルを早く学んで、そのモデルを日本全国、まさに北海道から沖縄まで津々浦々に行き渡らせて、そして特に経済の側面でいうと、北海道の工場でつくったものも、東京の工場でつくったものも、沖縄の工場でつくったものも同じように性能のいい不良品の無いものをつくらないと、アメリカ・ヨーロッパに追いつき追い越していくことはできないということの中で、できるだけ金太郎飴のような日本全土をつくり、金太郎飴のような国民をつくろうということでやってきた。それはアメリカ・ヨーロッパに追いつき追い越すためには非常に合理的でした。
 時々日本国憲法をアメリカの押しつけであると言って批判をする人がいるのですが、だいたい明治維新のときだって、戦前の明治憲法はプロイセン憲法の借り物でありましたし、それは憲法だけではなくてアメリカ・ヨーロッパの法制度であったり、今もめている郵便制度であったり、様々な科学技術であったり、さまざまな制度を外国から輸入をしてくる。そのときには言葉ができて、何か正解のある問題を覚えて、理解して進めていくことについては、ペーパーテストの能力の高い人たちが外国のものを学んできて、その人たちが号令一過全国に行き渡らせる、これは一定の合理性があっただろうと思います。しかし、まさに欧米にキャッチアップができた、追いついてしまった瞬間から、それまで合理的であった中央集、権官僚主導というものが大きな邪魔に今日本国ではなっているということです。
 アメリカ・ヨーロッパに追いつくためには、北海道でも沖縄でも同じように性能のいい不良品の少ないものを大量生産するということが意味を持って、アメリカ・ヨーロッパに経済的に追いつくことができました。しかし、世界のトップランナーになって、むしろ他の国から追われる身になった瞬間に、このことが逆にマイナスになります。北海道でも沖縄でもできることは、北京でも上海でもできるということになって、北京や上海の方が人件費は圧倒的に安いし、豊かでない分だけ豊かになろうという向上心が強いしということになりますから、どんどんどんどん中国や東南アジアの国々に追われてくると。その差を狭められてきて、相対的な経済的な地位が下がっていくという中にこの20年ぐらい日本は置かれているわけであります。金太郎飴ではだめなのだと。
 アメリカの戦後60年が、時々波はありながらも、第2次世界大戦が終わった段階から今まで60年間常に世界のトップランナーであり続けることができたのは、一つには軍事力かもしれませんけれども、軍事力だけだったらソビエトだって同じようにあったはずであります。アメリカが60年間トップランナーを走り続けてこられたのは、多様性ある社会と国家を築き上げていて、例えば今のアメリカの経済を支えているIT産業というのは、30年前には海のものとも山のものともわからないところに、新しい人たちがチャレンジをして、そしてその新たな想像力によって今のアメリカ経済を支えるITビジネスが出てきています。
 ここに象徴をされるように、常に新しいビジネス、新しいアイデア、新しい技術というものがどんどん生まれてくる土壌をつくっていかないと、世界のトップランナーとして走り続けることはできません。そのためには中央集権というのは邪魔でしかありません。それぞれの地域が多様性を持って、それぞれの地域ごとにいろんなアプローチ、チャレンジを進めていくという社会でなければいけない。教育のあり方も、人と同じであることが価値ではなくて、人と違っていることが価値なのだということを教える教育にしていかなければならない。ましてや正解のある問題にいかに速く答えを出すのかという日本の今の受験システムの中での優等生というものは、もちろんそういう人たちの一定の役割は、どんな社会においても存在するわけですけれども、最大の価値を持つのは、「ホリエモン」がそうなのかどうかはちょっと別にしても、人のやらないことにチャレンジをして、人のやれないことを新たに生み出す能力を持っている人の方が、日本社会にとってすべての人がそうなることができないだけにより価値貴重であると。そうでなければ世界のトップランナーとして走っていくことはできない。だから中央集権、官僚主導国家を変えなければならないという歴史的な位置づけに我が国は置かれているわけであります。
 中央集権、官僚主導というのはまさに憲法そのものです。公権力のあり方、公権力のルールそのものでありますから、まさにこれを議論するということは憲法を議論するということに他なりません。日本国憲法にはいろいろな不十分な点があります。法ですから完璧なものはあり得ないと思っていますから不完全でもいいのですが、最大の不完全は分権に関する規定だと思います。日本国憲法の地方自治に関する規定は、条文も少ないですが、要するに国会に白紙委任をしています。連邦制の国などではもう連邦憲法と各連邦を構成する州憲法とに分かれていて、そもそも州憲法の方が先にあってだなんていうことがあったりしますが、連邦制をとらない国でも、最近の多くの国では憲法に中央政府の役割と地方政府の役割をきちっと明記をしているケースの方が普通だと思います。そして中央政府と地方政府との間の権限の争いをどう調整するかという調整機構などについて憲法に規定があるのが普通であると思います。
 ですから私たちは、分権連邦型国家をつくっていくという観点で、実は道州の話は憲法ではないのです。地方自治体の規模をどうするかという話は、それは時代状況に応じて柔軟に変化をさせる必要があると思いますが、それぞれの基本的な権限は憲法に本来は規定されておかなければいけないということだと思います。
 つまり我々は補完性の原理と言っていますが、基本的に住民の皆さんに対する行政サービスは基礎自治体、今の制度でいえば市町村が担うのだと。市町村ではどうしてもできないことがあれば、それは広域自治体、つまり現行の制度では都道府県、あるいは将来道州制になれば道州が担うのだと。そして、基礎自治体でも広域自治体、都道府県や道州でもどうしても対応できない問題だけが中央政府の所管事項なのだと。こういう基本的な考え方を、ちゃんと憲法上少なくとも憲法的価値を持つ法として位置づけなければいけないだろうと。そして、この今の補完性の原則に反するような法律は憲法違反だと言って、裁判所が違憲判決を出せるようにしなければいけないと思っています。当然のことながら、そういう制度のもとでは、例えば立法権や課税権について、地方政府が持つということは当然のことだと思っています。しかし、今の日本国憲法では国会が唯一の立法機関とされています。
 それから時々税について、納税の義務が憲法に書いてあるという人がいるのですが、あれは中学校の社会科レベルの誤解が世の中に行き渡り過ぎているなと、私は非常にじくじたる思いをするのですが、憲法は納税の義務を書いてあるのではありません。課税は法律でないとできないということが書いてあるのです。法律に基づいて税金を納める義務があると、そういう規定だったと思います。意外と弁護士は条文を丸暗記はしていませんので、済みません。
 法律でなければ課税はできませんよ、政令や条例では課税ができませんよというのが法的な意味です。あの規定がなかったとしても、税金を課すことという法律をつくれば、政府は国民に税金を課すことができます。だから、皆さんには年金の納付義務があるのです。年金を納めなければならないという義務は憲法に書いていませんが、法律で年金を納めなければいけないと書いてあるから、皆さんは年金を納める義務を負っているのです。憲法で禁止されていること以外の義務を課すことは法律でできるのだと。それは余談ですが、納税の義務ではなくて税金を課すことは法律でないとできないと、憲法には書いてあるのです。ですから、地方の課税自主権や地方の立法権というのは、今の憲法は否定をされています。
 
 
【地方分権・権力分立の議論は憲法の議論】
 憲法改正は最後に話しますが、我々は短期的にリアリティーのある話だとは必ずしも思っていませんから、現行憲法のもとでも最大限の分権連邦型国家をつくりたい、そのためにいろんな法律上の制度をつくっていくことの準備も進めていますが、本質的にはこの分権の話は憲法でやるべきです。なぜならば、まさに権力分立の話だからです。これまた中学校的憲法の教え方の日本の間違いなのですが、日本の憲法は三権分立ではありません。そもそもがアメリカは三権分立ですけれども、日本は、まず言うと2.5権分立です。立法権と行政権は半分一体化しています。立法府の多数派が行政権を担うということになっていますから。
 それと同時に憲法的原理でいうと、しょせん三権分立だなどというのは、中央政府の内部における権力分立にしかす過ぎません。主権者である国民が公の権力に対して自分たちの主権の行使について委託をするのが憲法です。委託をする先をどこにするのかということは、本来は憲法で決めなければいけません。これは中央政府にやらせよう、これは地方政府にやらせよう、そのことは本来主権者である国民が判断をして、その基本的なところを憲法に書いて、それでこれは中央政府、これは地方政府、その中央政府の中で行政・司法・立法をどう分けて権力を分立させるのか、こういう問題なのであって、まずは中央と地方との権力分立があった上で、中央政府や地方政府内部における権力分立出てくると、こういう話なのですが、日本の場合は全面的に中央政府の立法府に白紙委任しています。法律でどうにでもできる。
 例えば団体自治の原則とかいろんなことを言われていますが、これ全部解釈です。条文には何も書いてありません。だから恐らく立法府で、つまり私たちが国会で地方の条例制定権を全部否定をし、地方政府は、つまり都道府県や市町村は国の下請だけしろという法律をつくったとしても、多分日本の最高裁判所は違憲だという判決を出せないと思います、全部解釈にしかす過ぎませんから。
 ですから、法律で何とかその枠の中でも分権型の社会をつくっていくという努力はしますけれども、本来的には主権者である国民の皆さん自身が、国会議員のあの連中に任せるのがいいのか、道会議員に任せるのがいいのか、市会議員に任せるのがいいのかということを、その基本的な部分は本来憲法で公権力に対して分けて権力を与えるべきだと思います。
 現実的な問題としても、憲法の議論のところでこれをやらないと、本当の意味での地方分権はできないと実は思っていまして、なぜかというと権力というのは本能的に維持しようという本能が働くからだということです。私たちも分権連邦型国家を目指していますが、政権をとって最初の1期目や2期目は多分一生懸命分権のためにやるでしょう。しかし、歴史を見てきても、権力を持っている側がみずからの意思でその権力を手放すだなんていうことは、歴史の中でそうそう見られることではありません。やはり権力というのは自己保存本能があるというべきなのか、できるだけ手放さないようにしようという本能が働いてくるというのが、歴史の今までの蓄積です。ですから、こんなことを国会に任せてはいけないのです。国民の皆さんが自分たちで決めて、国会議員はここまでだということを決めるというのが本来の筋であるというふうに思っていますので、やっぱりこれは憲法問題だと思っています。
 
 
【行政権を行使する中央省庁・指揮命令権の無い総理大臣】
 時間が短くなってきたので駆け足になりますが、同じような視点から、中央政府の中における行政のあり方。憲法で行政権が与えられているのは内閣です。財務省でも、金融庁でも、外務省でもない。ところが、これまた半分は空洞化・形骸化の一つでもありますが、実際に行政権を行使しているのは内閣ではなくて、外務省や財務省や、そういう役所になってしまっているのが今の日本の実態です。これを法律や運用で大分できるところはありますが、やはり憲法的レベルのところでやらなければならないことが幾つかあります。
 例えば、内閣総理大臣は閣議で決めないと指揮命令権がありません。国民の皆さんが民主主義のルールに基づいて選んでいるのは内閣総理大臣です。国会議員を選び、その国会議員が選挙で選んでいるのは内閣総理大臣です。その内閣総理大臣が国民から間接選挙によって選ばれたという民意に基づいて選んだ大臣・内閣なのですから、そこに対して指揮命令権があるのは当たり前ではないですか。だけれども、憲法に行政権は内閣に属すると書いてあるから、閣議決定がないことを内閣総理大臣が指揮命令したら憲法違反ですというのが、今の内閣法制局の解釈です。
 解釈変更をしてもいいかなと個人的には思わないではないのですが、そもそも行政権が内閣に属するというのは、日本国憲法とは実は戦前の憲法と連続して物すごく強いと私は思っていまして、戦前の憲法の連続性です。戦前は天皇のための内閣であったわけですから、内閣として連帯して天皇に責任を負って、連帯して仕事をするということで合理性がありました。多くの立憲君主制の国ではそういうシステムをとってきました。それは天皇に対する責任であり、天皇に対しての内閣だから、それでよかったのですが、民主主義の社会のもとにおける内閣の意味というのは、内閣という合議体が問題なのではなくて、その長である内閣総理大臣が国民の間接選挙によって選ばれている、その内閣総理大臣が選んだ閣僚であるということに意義があるのであって、それは戦前の連続性で考えるべきではない。官僚主導体制を壊していくためにも、内閣総理大臣の指揮命令権というのはちゃんと位置づけなければいけないだろうと。さらに言うと、本来行政権を持っている国民から負託を受けている民主的な統制下にある内閣と、そのもとでペーパー試験に受かった人たちによって選ばれ、構成されている、国民に対して政治的責任を負わない行政システムと、その役割について混然一体として今行政権としか書かれていない。それは国民の皆さんが、きちっとおれたちが選んだところでここまではやれと、ここで決めたことについて、そのもとで各省庁はやれということを本来憲法上整理をするべきであると思っています。
 この後のところは細かい話をし出すといろんなことがあります。その行政のチェックをするための機関をどうしていくのかとか、そもそも国会二院制のあり方をどうしていくのかとかいろんなことがありますが、そういう時間は余りありませんので、皆さんも一番お聞きになりたいだろうという9条の話に、もう一回先ほどの空洞化・形骸化の話に戻ってお話をしたいと思います。
 
 
【9条の拡大解釈を許さないために憲法論議は必要】
 先ほどのように今の日本国憲法、特に9条のところは空洞化・形骸化をしていると私たちは認識をしています。そうした中で9条、自衛隊自衛権についてどういうふうに整理をするのかと。これは今日配っていただいているレジュメのこの一番裏側のページの3の下の方にもありますけれども、抑制的な姿勢のもとに置かれるべきであるという位置づけをしています。つまり今日国際法の先生が前段だったので若干やりにくいところがあるのですが、個別的自衛権とか集団的自衛権とか、そういったものがあるのだということは我々は認めていると。そして大事なことは、では自衛権なら何でもやっていいのか。特に集団的自衛権について何でもやっていいのかというと、私たちはそうは思っていないと。まさに私たちだけではなくて、世界中の歴史は自衛の名のもとに侵略的な戦争を行ってきている歴史です。それは日本だけではありません。私たちが60年前に、そうしたことは二度としないのだということをかたく決意して今の憲法をつくり、大事に育ててきたというその基本はしっかりと守っていかなければならないと。しかしながら万が一にも日本が他国から侵略を受けたときには、それに対して自衛をする、これも当然の権利として認められないといけないだろうと。そして現実にそのための組織を私たちは認めている。自衛隊を長年にわたって認めてきているわけですから。いまの憲法では自衛隊のことは何も書いてありませんから、まさに解釈だけで物事が決められているのです。個別的自衛権はいいけれども、集団的自衛権はだめと今の内閣法制局は言っています。しかし、単なる解釈です。 私は、法律家としてはこの解釈は間違っていると思います。個別的自衛権と集団的自衛権なんて、どこでどう区別するのだと。最後は相対的な問題ではないのかと思っています。
 その解釈が何が正しいかは別としても、解釈で限界が定められているということはどういうことかというと、解釈をやめたと変えます、変更しますと言った瞬間に歯どめでもなんでもなくなるということです。現実に先ほどお話ししたとおり、多国籍軍には自衛隊は参加できないと長年言い続けてきたはずの自民党政府そのものが、ある日突然いろんな理屈をこねて多国籍軍に今参加をしています。解釈では歯どめにならないということが、どうやらここ10年余りの間にはっきりとしてきたということです。ですから自衛隊自衛権が何をどこまでできるのかしっかりと歯どめをかけましょうということが、ここで言っている抑制的姿勢のもとに置かれるべきということの意味です。
 最近の議論の方向としては、例えば集団的自衛権といったときにも両極端でいろんな例があるわけです。例えば日本はアメリカと同盟関係を結んでいます。例えば日本と一番遠いところはどこなのでしょう、南アフリカ共和国なのでしょうか、それともチリなのでしょうか、ブラジルなのでしょうか、とにかく地球の裏側でアメリカが自衛権を行使する。同盟国だから、集団的自衛権に基づいて地球の裏側まで自衛隊が出ていって、アメリカのお手伝いをする。こんなことはあり得ないよね、許されないよねというのは党内的にもコンセンサスだと思っていますし、国民的にもコンセンサスだと思っています。
 しかし、例えばいま日米安全保障条約に基づいて、アメリカは日本を守る条約上の責任を負っています。日本に対して万が一急迫不正の侵害があった場合に、いやありそうな場合に、それに備えて例えばアメリカの艦隊が公海上を日本に向かって助けに向かっている。もうちょっとで日本の領海に入ろうとしているのだけれども、日本の領海に入る直前に、これは日本に対する侵略の前にこの助けにきた邪魔なアメリカの艦隊を攻撃しよう。つまり日本に対しての侵略はスタートしていないけれども、日本を守るために公海上で行動しているアメリカの艦隊が日本近海で攻撃されたときに、助けに行かないというわけにはそれはいかないのではないですかという議論があるわけです。集団的自衛権を認めるのか、認めないのかという議論だと、この両方いっしょくたんになるわけです。
 逆に言うと、個別的自衛権なら何でもいいのか。例えばアメリカのアフガニスタン攻撃は、これは個別的自衛権の行使と称して行われました。国際法上本当にここまで個別的自衛権の行使と言えるのかどうかという解釈は、専攻憲法ですので触れません。私は怪しいと思っていますけれども、少なくとも個別的自衛権の行使と称してアメリカはアフガニスタン攻撃をいたしました。9.11に対する自衛措置として。
 日本の自衛権は、こういうところは認めるべきではないのではないのと。国際法上仮に認められるにしても、9.11に対するアフガニスタン攻撃のようなことは許されるべきではないのではないのという議論をちゃんとすべきではないかと。どういうことかというと、急迫不正の侵害の急迫性をちゃんとやらなければいけないのではないかと。つまり日本の今の専守防衛の基本的な原則、自衛権発動の要件として、急迫不正の侵害という要件があります。この急迫性をちゃんとやらなければだめだと。9.11を例にとれば、あの1機目の飛行機が貿易センタービルに突っ込んで、まだ2機目、3機目がどこに行っているかわからなくて、どこかに突っ込むかもしれないという状況が続いている間は、急迫不正の侵害がなされている状況だったと思いますから、その段階で個別的自衛権を行使するというのはそのカテゴリーの範囲、急迫不正という要件を満たすかどうかという範囲ではあり得るかもしれませんが、あの9月11日が終わった時点で急迫不正の侵害は継続していないのに自衛権と称して反撃をするというのは、それは国際法上もし認められるのだとしても、日本はそういうことをやるべきではないのではないのと。現に日本の国民の命が次々と殺されつつあるとか、今まさに殺されようとしているということに対して自衛をするべきではあるかもしれないけれども、やられたらやり返すというような意味での自衛権というのはやり過ぎなのではないのか。それこそたぶん今日の前段もそういう話だったと思いますが、今の時点では国連はまだまだ不十分かもしれないけれども、国連をはじめとする国際社会の協力を得て、合意を得て、それに対しての対応はするべきなのではないのと。だから個別的自衛権なら全部いいとはならない。集団的自衛権なら全部だめとはならない。そういうことをきちっと憲法で歯止めをかける必要があるのではないだろうかという観点から検討議論をしているつもりであります。
 なかなか現実では簡単ではありません。つまりあまり細かいことを書き過ぎると、手足を縛られて現実対応ができなくなる。しかし、あまり曖昧なことをやっていると、解釈でまたどうにでも柔軟に変更されたのでは法としての意味がない。どんな政権、どんなむちゃくちゃな総理大臣が出てきても、さすがにこれは憲法違反だねと、むちゃくちゃなことをやろうとしたときにはなるように、しかし現実の世の中の事態はいろいろ変動があります。60年前と今で、例えば安全保障に対する兵器とか、そういう実態も全然変わっています。かつてはそれこそ北海道の皆さんにとっては、ソビエト軍が大量の陸上部隊を持って北海道に上陸してくるかもしれないというのが日本にとっての一番可能性のある脅威であった時代がありましたけれども、今は北朝鮮がまさか何か計算をちゃんとしないでむちゃくちゃなことでミサイル打ってくるかもしれないというのが、可能性あるリスクとしては一番高いだろうと。全くリスクの性質も違ってきますから、そうした状況の変化に対応もできないといけない。ですから、具体的なことは、できるだけ法律レベルで安全保障の基本法をつくる。だけれども、しっかりと憲法上もその基本的なルールについては枠をはめるということが必要ではないだろうかと。
 例えば枠をはめるということでいうと、決定的に欠けているのは、むちゃくちゃな話ですが、シビリアンコントロールが今の日本国憲法には書いていないのです。自衛隊が現に存在しながら。だから今もミサイルディフェンスについての法案、自衛隊法の改正で、安全保障の委員会などで議論をしていますが、あれは実は警察権の行使だと、これまた法解釈的にはわけのわからない話を言っているのですが、とにかくミサイルディフェンスで、敵のミサイルが日本上空を飛んでいったらそれを下から打ち落とすことはやる。だけれども、そんなとき事前の国会承認はとれないでしょうから、国会承認がとれないのはまあともかくとしても、その後国会への報告で済まそうというばかな法律を自民党は出してきています。シビリアンコントロールという基本的なルールが憲法に書いていないからこういうむちゃくちゃなことが許されてしまう。自衛隊、これを軍と呼ぶのかどうかは別問題としても、警察力を上回るような大きな有形力の行使をする、公権力の行使をするに当たって、原則的にはその行動については事前に国会の承認を得ると。どうしてもやむを得ない場合に限って事後を認めるけれども、その場合でも、国会での承認と承諾と何か2種類あって、それはいま我が党の安保の部門会議ではかなり問題になって議論になったそうですが、普通の言葉では事後に承諾をちゃんと得るようにすると。事後に承諾を得られなければ、それを決定した内閣は政治責任をとると。こういうシビリアンコントロールの基本的なことすら今の日本国憲法では何の枠組みもないから、イラクの自衛隊派遣などについても、延長するときに国会報告で全部済ませていると。こういうむちゃくちゃなことが起こっているのは、自衛隊自衛権が事実上存在していながら、憲法にそれを前提とした規定が全く存在をしていないからです。本当に憲法を国民の手に取り戻して、国民によって枠をはめるということからは、こういうことをきちっと議論をして、できるならば憲法で縛りをきちっとかけるということがないと、危なくて仕方がないのではないかと思っています。
 新聞記者の人は今日聞いているのですか。実は最近自民党のタカ派の人たちは、9条の条文は変えない方がいいという判断をしている人がものすごく増えています。つまり今のままだったら、内閣法制局の長官の首を絞めて、どんどんどんどん解釈を広げていった方が、憲法の条文改正をするという面倒なことをやるよりも、ずっとやりたいことができるということに彼らは気がつきました。恐らくそのきっかけは去年の多国籍軍参加だと思いますが、そのことに気がつきました。ここまで解釈をなし崩し的に広げてきたら、どこまで広げても今の日本の憲法論、最高裁判所がそれに対して違憲判決を下すとは到底思えません。ですから、彼らなりの判断は、その限りにおいては私は正しいと思います。このままであれば、憲法の条文はそのままにして、解釈によって何でもできるという方向に進んでいくと思います。
 それに対して本当に条文だけ守っていればいいのか、それともきちっとここまでは許すけれども、ここから先はだめなのですという限界をしっかりと定めるのかということ、これは最初に申しましたとおり、最後は国民の皆さんの判断だというふうに思っていますが、私はそのことの投げかけをする責任、どちらが本当にリアリティーを持って拡大解釈というか、行き過ぎを防ぐ歯どめになるのかということは考えないといけない時期に来ているのではないかと思っています。
 
 
【まじめに憲法論議をする気がない自民党国会議員】
 ではここから憲法の議論がどうなっていくのか。読売新聞など読んでいる方がもしいらっしゃれば、何か来年にも憲法改正の発議があって国民投票が行われそうな、そんな状況の危惧を抱いている方もいるかもしれません。私はその可能性はまだ五分五分以下だと思っています。近未来で憲法が変わる可能性は五分五分以下だと思っています。
 憲法が変わるためには二つの条件をクリアしなければなりません。国会の3分の2以上の多数が発議をする。そして、国民投票で過半数の人が賛成をするということです。まず一つ目の条件、国会で3分の2以上が賛成をしなければなりません。今の政治構造からすると、自民党も、民主党も、近未来で単独3分の2をとる可能性というのは相当低いと見るべきだと思います。自民党は60年間にわたって自主憲法制定を掲げて3分の2をとろうともがいてきましたけれども、自民党全盛期でも3分の2はとれませんでした。今の状況の中で単独で3分の2をとれるとは到底思えない。では、民主党も何とか今過半数をとろうと思って頑張っているわけでありますが、3分の2を単独でとる道は相当遠いだろうと思います。やっぱりそこからの壁は相当厚いだろうと思っています。したがって、自民党と民主党と、恐らく今の政治構造の中で公明党という政党は単独で存在し続けると思います。一定の勢力を持ち続けると思います。そして何らかの意味で政治に大きな影響力を持ち続けるだろうと思います。そうなると、この公明党も含めた3党が一致をしない限り、憲法改正の発議はなされないということです。
 私たちはまじめに建設的に国民を憲法の手に取り戻すために国会として発議をする責任があるならば、それを果たしていこうと思っていますが、自民党の中でそう思っている人たちは概ね半分と思っていいと思います。残り半分の人たちは違います。憲法、憲法と騒いでいれば、憲法、憲法を争点にすれば政権交代から免れるのではないかというよこしまな思いを抱いている人が半分だと思っています。実際にこの国のためにどういう憲法がふさわしいのか、正しいのかということを余りまじめに考えないで、憲法を政局の道具に使おうとしているという人たちがやっぱり自民党の半分だと私は見ています。
 今まじめに憲法を考えている人たちは、自民党らしい憲法ではなくて、3党で最終的に一致しなければいけないのだから、国会という立場から国民の皆さんの意思が那辺にあるかということを模索をしながら、コンセンサスをつくっていこうという歩みをしています。衆議院の憲法調査会の中心メンバーは自民党の皆さんもそういう考え方でいますから、今回、調査報告書を建設的にまとめることができましたが、そういう議論に余り加わっていないところで、自民党らしい憲法だなどということを言っている人たちがたくさんいます。自民党らしい憲法を発議書を出すとき、民主党がそれに賛成するはずがない。自民党らしい憲法を発議するときに、公明党がそれに賛同できるはずがない。自民党らしさを言えば言うほど憲法改正の発議から遠ざかる。それがわかっていないとすれば足し算のできない人たちなのかなと思いますし、わかっていても言っているということは、やっぱりこの人たちは本気で変えようと思っているのではない。憲法を変える変えると叫び続けることで自分たちのアイデンティティーを保とうとしている人たちだと、私は思っています。
 実際にこれまでもそうでした。自由民主党のアイデンティティーは二つしかありません。利権をどうやって分配するかということと、そして憲法改正というアイデンティティーしかありませんでした。ですから自民党の半分ぐらいの人たちは、変える変えると言いながら変わらない。変わらないのはあいつらのせいだと人のせいにしているのが一番幸せだということを、半分の人はわかっています。ですから、この人たちが自民党の中で主導権をとれば、憲法改正の発議ということは近未来的にはあり得ない。恐らくそれがリアリティーを持つのは、民主党が単独で3分の2をとるときだろうと思います。こうなる可能性が半分です。残りの半分は、自民党の中でまじめに憲法を考えている人たちが主導権をとり続けてくれれば、建設的な今私が申し上げたようなことなどを、国会の中で超党派で議論を進めていくという構造になっていくだろうと思います。
 なっていくだろうと思いますが、最後決めるのは国民の皆さんです。最初の憲法改正が否決をされるということは、憲法がタブーになるという状況が継続するということで、否決をされたら今まで以上のタブーになりますから、国民投票で否決されるかもしれないというリスクを持って憲法改正の発議をするということは政治的にあり得ないと思っています。時々、国民の多くが憲法改正を望んでいないのに国会だけ先走ってけしからんと言う人がいますが、だったら国民投票をさっさとやらせればいいのです。国民投票で否決すればいいのです。そうしたら、また何十年か、みんな怖くて憲法改正の発議なんかできなくなります。
 逆に本当に憲法改正の発議をするときには、恐らく国民の7割、8割の人たちがこれならいいよねというコンセンサスができている状況で初めて憲法改正の発議がなされるということになると思います。今はまだそういう状況にはほど遠い。最初に言いましたとおり、恐らく7割から8割の人は余りちゃんと考えていません。ちゃんと考えていないということは、実際に発議して国民投票になったらどっちに振れるかわからない。とてもではないけれども、そんなリスクのあることはやるべきではないと思いますし、こういう7割、8割の人たちが憲法を自分の問題として考えて、なるほどこういう改正ならいいかなとか、いやこういう改正ならだめだなとか、そういうコンセンサスがあって初めて発議するとかしないとかということを、国会はようやく決められるのだと思っています。
 今やっていることはみんな自分の問題として考えましょうよと。自分たちが当事者ですと。しょせん国会議員は発議・発案をするにすぎませんと。ちょうど国会と内閣の関係にすぎません。法律をつくるときには各役所が法案をつくってきますが、国会の場合は修正ということができますが、国会がだめだと言ったら法律は通りません。ですから、国会が立法府なのです。憲法については、ちょうど国会に対する役所の関係が国会にある。国会は発議をすることにしかすぎません。ですから、当事者、自分の問題として多くの方が憲法について、特に我々からすれば今申し上げたような分権とか政治主導とか、そして自衛隊の自衛権などの行使にしっかりと限界、歯どめをかけるということのためにどういうルールが一番実効性を持つのかと、こういった観点で国民的な議論がしっかりとなされていければいいと思っていますし、そのためのいろんなボールを投げるのは、今国会あるいは国会の議席を持つ政党に与えられている役割ではないかなと。こういう視点で党の議論、そして党の議論を踏まえた国民的議論を喚起していけるように進めていきたいと思っておりますので、多分変えるべき、変えるべきではないについてはいろんな意見がきょうお集まりの方の中にはあるのでしょうが、当事者としての議論をしっかりしていこうという点については、ご協力をいただければありがたいというふうに思っております。
 ありがとうございました。
 
 
− 質 疑 応 答 −
 
<質問>
 お話を聞いていて思ったのですが、既に形骸化・空洞化している憲法に対して民主党が一定の方向性を持って創憲しようということはわかったのですが、ただ先ほど先生がおっしゃったように、憲法解釈は変遷するのが前提であるというか、当然であるという解釈をとるならば、憲法を変えても様々な問題に対して歯どめをかけることはできないのではないかと思ったのですが、その点に関してどうかということが1点と、もう一点は緊急性・急迫性を要する問題に対して、そのときシビリアンコントロールをどのように生かしていくかということに関する民主党としての考え方がよくわからなかったもので、その点に関して教えていただきたいと思います。
 
<枝野>
 1点目の疑問は、私の舌足らずの話では当然だと思いますが、変遷することはあり得るとは思うのですが、変遷をする余地があるのは規定があいまいな場合であるということです。例えば人権については憲法13条という包括的に人権を認めた規定があるから、新しい人権をこれで呼び込んでいくことができるわけです。9条についてもその自衛権について一切何も語っていないから、解釈でここまではOKでとか、ではここまでしてしまおうかとか、こういう変化・変遷が可能になっているわけです。もちろん法ですから、だれが読んでも全く同じにしか読めないというふうなことにはつくれません。解釈の幅は必ず出てきます。ですけれども、できるだけ解釈の余地がないような規定を置けば置くほど解釈が変わるということもありませんし、そもそも変遷自体は起こりにくくなります。できるだけ自衛権、自衛隊などに関することについては、解釈の余地がないように決めることの方が望ましい。ただ問題は、あまりガチガチだと柔軟に対応できないのではないかという声もある。この辺のバランスをどうとっていくか。ただいまは何もないわけですから、全部解釈でいっているわけですから、それは何でもできてしまう。これは非常に危険だろうということです。
 それから2点目のお話なのですが、基本的にやはりシビリアンコントロールという観点からは、事前の国会承認ということについては絶対に変えてはいけない大原則だろうと思います。急迫不正の侵害に対する自衛権の行使といっても、急迫不正が継続していることはあるかもしれないし、実際に物が起こったら急迫なのですけれども、そういう状況になりそうだという状況、つまりある日突然、例えばアメリカが日本に対してミサイルを撃ち込んでくるかといえば、それはやはり明日打ち込んでくる可能性はゼロでしょう。というふうに自衛権を行使せざるを得ないような状況になっていくプロセスというのはあるわけで、そのある段階で事前承認するということは十分に可能だし、できる限り事前承認をとった上で物事を進めていくべきであろうと。
 そして大事なことは、事前承認ができないような状況の場合であっても、事後的には国会に報告をし、報告だけではなくて国会で審議・議論をして、それが誤っていたら承認されない、政治的な責任をとる。その政治的なリスクを背負った上で判断をしていくということが大事だろうと。
 さらに言うと、これは党としてそこまで議論していませんが、個人的な考え方ですが、党としても議論していることの一つに、立法権は国会を唯一の立法機関にしないで、国会においても一定の国民投票で国民に信を問うて法律の改正などもした方がいいのではないかという議論もしています。例えば時間的余裕があるようなケースについていえば、本当のシビリアンコントロールだったら国民投票・・・・
 
<A面切れ、B面へ>
 
・・・もちろんある日突然何かどすんと起こる。そういうこと自体もそもそも考えにくいのですが、という場合にはできないかもしれませんが、緊張が高まってリスクがあるという場合には、もし何かあったら自衛権を発動していいですかという国民投票をかけるような余地を残すというようなことなども、シビリアンコントロールの原点からいえばあってもいいのかなとは思っています。
 
<質問>
 憲法改正論議は現状と憲法との間に乖離があるというようなことで出てきているというような報道とか、それから憲法と現実が合わないというような言い方が一般的にはされているようなのですけれども、その場合に、そのような現状を生じさせている国会と内閣の責任問題というのが、私はそういう論議で来ているとすればあるのではないかと。憲法を無視してきている現状をどうするかということではなくて、本末転倒のような感じが今の話の中の状況にはあるのではないかと一つ考えるのですけれども。
 それともう一つ、今改憲解釈ということでいろいろなことが行われているということで認識するのですけれども、であれば新しく憲法が定まった場合に、今話の中では解釈をはっきりさせるのだというような話があったのですけれども、60年近くいろいろと勝手に解釈できる状況が続いてきた現状から見ると、新しく憲法ができても数の論理でどうにでもなるというような風潮ができてくるのではないかというぐあいに感じるのですけれどもいかがでしょうか。
 
<枝野>
 後段についてのご心配はよくわかるのですけれども、まず前段についてで、形骸化・空洞化とは申し上げたのですが、規定と現実が乖離をしている、食い違っているという話は、そういう表現は今日使わなかったつもりでいるのですが、というのは食い違っているかどうかというのも今の憲法をどう解釈するかによって決まってくるわけです。今の憲法、特に安全保障9条でかかわる部分というのは、本当にいろんな幅広い解釈ができるような規定になっているわけです。例えば国際貢献、集団安全保障については全く何も触れていないのです。自衛隊自衛権についても全く何も触れていないのです。全く何も書いていないのだから、多種多様な解釈ができるわけです。多種多様な解釈ができるから、だから形骸化・空洞化になっていくということなわけです。
 例えばきちっと規定が書いてある部分については、そうは言っても勝手に数の力をもって解釈をゆがめるということは簡単にはできないわけです。例えば日本の憲法の特徴として、刑事手続に関する規定は非常に詳細に書いてあります。つまりどういう場合でないと逮捕されないで、どういう場合でないと起訴されないで、裁判はこういうふうにやるのですと物すごくきちっと書いてあります。余りきちっと書き過ぎていて、例えば被害者のプライバシーの観点から公開について何とかした方がいい、ちょっと公開について例外を置いた方がいいような刑事事件、例えば女性に対するわいせつな犯罪などについてすら、公開原則というのが徹底されていたりするわけです。細かくきちっと書けば書くほど解釈の余地は小さくなる。解釈の余地が小さくなればなるほどそれと違うことはできなくなるということなのだと思うのです。
 そういう意味で、できるだけ解釈の余地の幅が狭いような規定をすると。繰り返しますが、もちろん100%絶対だれが読んでも一緒という条文にはなり得ませんから限界はありますけれども、今何も書いていないという状況だからこそこんなに何でも解釈できるという状態ができているということは、ひとつ意識をしなければいけないのではないだろうかと思っております。
 
<質問>
 自衛権ということが出ましたので、もう少し自衛権ということを教えていただきたいのですけれども、自衛権という場合にはやはり国の自衛権というふうになりまして、そうすると憲法9条で何らかの自衛権の問題を入れていくということになっても、やはり誰が誰に対して、いわば侵略なりなんなりして、それに対するだれの自衛権かということがやはり問題になるとは思います。そうしていきますと、例えば中国では反日のデモが起きると。あるいは韓国等では竹島の領土問題が起きていると。こういう中で今現在民主党本部としては、日本国の自衛権という場合にはどこからどこに守るためのものなのかというところをもう一つはっきりしてもらわないと、いわばこれも解釈でどこまでも広がっていくのではないかという危惧があります。
 それとともにもう一点ですけれども、集団的自衛権ということを言われましたけれども、アメリカとの同盟関係についてはどうなのかというところがさっきの先生の話ですと大分わかるのですけれども、民主党本部といいますか、枝野さんといいますか、そこはよくわからないのですけれども、とらえ方、それが私はよくわからなかったというか、アメリカがどこか日本を守るために来た場合に攻撃された場合には、やはりそれは何らかの措置をとらなければというようなことを言われたということは、いわば日本とアメリカの同盟関係を前提にしながら話を進めているというふうに思いました。そうすると、現在的に考えることは、先ほども先生も言われたとおり、国連の中でアメリカが単独でいろんなことを武力行使をしていると。このようないわば先生のさっきの言葉で言いますと、国家テロについてどう民主党は考えているのかと。今考えるべきことはここなのではないかというふうに思います。そういう観点から憲法問題ということも今後考えていただきたいと思うのですけれども、その点についていかがでしょうか。
 
<枝野>
 まず第1点目ですが、国とは何なのかということについて、この国はあまりきちっとした定義をつけないで議論をしているのです。これが一番顕著なのは、愛国心を憲法に入れろとかというわけのわからないことを言っている人たちなのですが、国というのは領土と国民と公権力の3要素によって形成されるものです。その中のどれか一つをもって国となるわけではないし、その全体をもって国となるわけだと思います。ですから、国民と対立する概念としての国というのはそもそも存在したらおかしい。国民を含めて国であると。国の中において国民と公権力の関係をどう規定するのかが憲法であるというふうに理解するのが正しいと思っています。
 従って国を守るという概念自体をきちっとしなければいけないと。国を守るという言葉は非常に省略した言葉だと思っています。つまり国民の生命・財産を守るための公権力の行使をどうするかというのが国防ということの正確な意味であると。その基本的な認識はちゃんと守らないとわけのわからないことになってしまう。つまり国を守るという名のもとに、本来守るべき国民の生命・財産が侵害されるということになってしまう。ここは丁寧に国とは何なのか。それは領土と国民と公権力の3要素によって構成をされているものが国であって、国を守るといったときには、公権力を守るのか、国民を守るのか、領土を守るのか。私は究極において守るのは国民であると。その基本線、それは今の憲法でも書かれている個人の尊重という理念をしっかりと維持することによって、そこをもっと明確にする必要は確かにあるだろうと思っています。
 それから日米同盟の話ですが、ご指摘のとおりアメリカが今やっている単独主義ということについては否定的です。同盟国であるからこそ、きちっと日本はこのアメリカの単独主義に対してくぎを刺すと。そして、おつき合いできないことはおつき合いしないと明確に言うべきだろうというふうに思っています。民主党としてはそこは不十分とごらんになるかもしれませんけれども、それなりにきちっとやってきているつもりでありますし、民主党に政権をとらせていただければ、今のようなアメリカべったりの外交とは全く見違えるような外交になるということは自信を持って申し上げます。
 ただ、同盟国としてもアメリカに対してくぎを刺し、同盟国のやっていることであろうと間違っていることにはつき合わないということと、同盟関係のある国とどういうところまで何を協力し合うのかということの問題は、別次元の問題だというふうに思っています。日本を守る、東アジアの安定のためにアメリカの国益にもかなうし、日本にとっても都合がいいということでの日米安全保障体制は堅持するという立場で、日米安全保障体制を堅持するという範囲の中において日本の自衛権ということをどこまで許容するのかということを考えたときに、私は先ほどのような話を申し上げましたが、だからといってアメリカが世界じゅうでいろんなことをやっていることにつき合うということを憲法上許容する必要もないし、それは憲法上許容する必要がないだけではなくて、外交的にもそれに対してはきちっと物を言うということが、これは憲法問題ではなくて外交問題として前提にあると思っております。
 
<質問>
 今日いろいろ先生のお話を聞いて、変えた方がいいところが9条だけではなくて至るところにあると。それで変えるのにも、柱を変えるようなことをやるとなかなか方針が定まらないと思うのです。例えば私学助成の問題とか、先生が言われた裁判のときプライバシーを守るような必要があるときは、それをやるとか。我々日本人というのはどうしても大幅に変えなければならないということで、例えば戦前の明治憲法を天皇の統帥権のもとでやると、軍隊が暴走してしまってとめられなかったと。変えなかったから結局あっちの方へ行ってしまったので、なるべくマイナーチェンジをするようにして、それで解釈がどんどん広がっていかないようにした方がやっぱりいいし、大々的な議論をやっているうちにどんどん国がおくれてしまって、ほかの国を見ると、結構この条項は停止するとかこれをつけ加えるとか、憲法をドイツあたりも割合簡単にというか、どんどん議論できることをやっているので、国会議員の先生方はその辺に大々的な議論ではなくて、スムーズに変えられるところから変えられるという、そういった議論も必要ではないかと思うのですけれども。
 
<枝野>
 私は全く個人的には同感でありまして、憲法を全面書きかえするというのは革命というのですよね。だから、自民党というのはきっと革命政党なのでしょうね。と私は思っています。わけがわからないのは、きのう発表した取りまとめた衆議院の憲法調査会の報告書でも、基本三原則は守るというのは全党・全議員一致なのです。基本三原則を守るのに全面改正をするところは私にはわけがわからないのですけれども、なおかつ先ほどお話ししたとおり、3党でコンセンサスを得なければ現実には発議になり得ないわけです。3党でコンセンサスを得られる可能性のあるところから議論をしなければ意味がないわけでして、そこがリアリティーを持って憲法を議論するのか、それともプロパガンダの材料として憲法をおもちゃにしてきているタカ派的自民党憲法論なのかの違いだと思っていまして、ここは実は国会としてどうなっていくのかというのは、ひとえに僕は自民党にかかっていると思います。まさにまじめに憲法を考えている人たちが自民党の中で主導権をとれば、今おっしゃられたとおり具体的に不都合のあるところ、具体的に国民も含めたコンセンサスのとれるところからやっていくということになるでしょうし、そうでない人たちが自民党で主導権をとれば、それはまた全面改正の条文を一生懸命つくって、そうなると政治的にこっちもやらざるを得なくなるわけです。
 では、民主党をどうするのだと言われて、うちの場合は本質はほとんど変わらないけれども、幾つかの問題点。だけれども、うちの方が分権とか統治のところは結構逆に大幅に変わるかもしれませんけれども、いや我々はこういうふうに考えるのだというのは政治的には対抗上出さざるを得ないようなことになるかもしれない。そうなってくると、憲法は近未来的には全く変わらない。どっちが望ましいかというのは、変わった方がいいと思うか、変わらない方がいいと思うかによって違うのかもしれませんが、それはひとえに自民党です。自民党が自民党らしさに走れば、両方が何か、多分公明党も出して三つ四つの案が出て、みんな妥協の余地がなくて、どこかが3分の2をとることは当面考えられなくて、ずっと憲法が変わらない。しばらく変わらない。ますます形骸化・空洞化で、解釈によってどんどんなし崩しになっていくという状態が続くのだろうと。それはできれば避けたいと私は思っています。