2005年3月26日
第1回 憲法講座
 
「憲法の今日的状況と改憲をめぐる動向」
 
                        小樽商科大学教授 結城 洋一郎
 
 結城でございます。このような場所に呼んでいただきまして大変感謝しております。また土曜日の午後に、これほどたくさんの方にお集まりいただきまして大変恐縮している次第でございます。約90分間、私の考えをここで述べさせていただき、その後、もしご質問等があればお受けしたいと考えております。
 話の内容はレジュメの1ページに大きな3つの柱を書いてございますが、主として1番目と3番目に中心を置いてお話ししたいと思っているところです。
 いちばん最初の部分は、そもそも憲法とはいったい何なのかということを考えてみようということでして、恐らく憲法改正論議が進めば進むほど、例えば憲法改正に限界はあるのかとか、つまり憲法学会でいえば改正の限界論と無限界論という対立がありますが、そういう問題が提唱されてくると思います。そういう問題が出てきたときに、そもそも憲法というのは何なのかということをそれぞれ考えておく必要があるのではないかということが私の主たる興味ということになります。
 第2番目は、こちらの方から憲法の空洞化についても触れてくれというので、2番目の空洞化のことを少し書いておいた程度なのです。
 3番目は、改憲論の諸相についてお話をしようと思っているのですが、近年、去年の暮れあたりから今年にかけて、たくさんの憲法改正草案が発表されております。また去年の8月には、各党の憲法の改正の考え方を国会で各党が発表していたりしていまして、その論点は極めて多岐にわたっておりまして、これを逐一問題にすることは到底不可能でございます。その中で最も私が最近ショックを覚えたというか、非常に興味を持った経団連の考え方というものに焦点を置いて、今日の改憲論の全体の背後にある日本の考え方というか、ベースというか、そういうことを考えて批判したいというのが今日の私の考えているところでございます。
 
一 「憲法」とは何か
〔一〕実質的憲法概念と国民主権の憲法概念
 それではまず第1番目に、憲法とは何かということをお話ししたいと思うのですが、これからお話しすることは、憲法学会では議論の多いところでありまして、多くの問題について学説が対立しているわけですが、私が今からお話しすることは、必ずしも憲法学会の常識といいますか、みんながほぼ一致してそういう考え方をとっているということではございません。私の考え方であるということを最初にお断りしておいて、そういう考え方もあるのかというつもりでお聞きいただき、違う憲法の先生がもしここに立ってお話しされれば、また別個のことをお話しされる可能性がある、そういうつもりでお話をお聞きいたきたいと思います。
 法律学というのは、だいたい似たり寄ったり、そういう問題があるわけです。9条というか自衛隊が護憲だという人と違憲だという人が分かれるわけでして、違憲論の演者がここに立てば違憲だと叫ぶだろうし、護憲論者の人が来れば護憲に決まっているだろうという話になるわけで、あいつはそういう考え方なのだというつもりでお聞きいただきたいと思います。
憲法とは、「国家の根本秩序を定める法規範の一体をいう」−実質的憲法概念
 まず、最初の憲法の定義ですが、学校で、あるいは大学で法律を学び、憲法学にちょっとでも触れて教科書でも開いてみると、だいたいどの教科書の第1ページにも同じことが書いてあるのです。憲法の講義の第1回目は似たり寄ったりの話を聞かされるということになるのですが、憲法というのは、一般的に教科書に書いてある記述を申し上げますと、「憲法とは、国家の根本秩序を定める法規範の一体をいう。」これはドイツ国法学的な定義ですが、それを憲法と呼ぼうということです。これは必ずしも意味のないことではないのですが、要するに重要な国の基本的なルール、これを憲法と呼ぼうではないかということです。これを「実質的憲法概念」と呼んでいまして、内容から見る憲法の定義です。
憲法を存在形式、法の形式から見る考え方
 もう一つは、存在形式、法の形式から見る考え方がありまして、日本国憲法という名前のついている法典とかアメリカ合衆国憲法など、憲法という名前のついている法典に書いているものを憲法と呼ぼうという二つの考え方を並立して言っているわけでから、一人の人間が使い分けているわけです。実質的な意味においてはこれは憲法なのだと。しかし形式的な意味においては憲法ではないと。例えばそういう言い方をする、これが一般的な用法であります。
 例えば、イギリスにはイギリス国憲法典というのはないのです。普通の法律の寄せ集めが憲法を構成しているという言い方をします。そうするとイギリスに憲法がないのかというと、実質的憲法はある。例えばどういうものかというと王位継承法、人身保護法(律)とかいろいろあるのですが、そういうものだという言い方をしたいということです。では憲法という名前のついている法律に書いてあるのに、実質的には憲法ではないというようなものがあるだろうかというと、これまたあるというわけです。
 例えばここに書いてあるように、改正措置だったのですが、スイス憲法の昔の25条の2という「動物を殺すとき、食肉獣を屠殺するときには麻酔をしてから殺せ」という法律ですが、こういう法律はとても国家の根本秩序には関係ないでしょうと。ですから形式的に見れば憲法と言えるかもしれないが、実質的には、つまり内容的に見れば憲法と言えないような法律があるではないかと、こういう話をするわけです。
 もっともらしいなという話になってくるのですが、こういう話をした後で、では憲法の法的な特色はどういう点にあるだろうというわけです。
憲法の法的な特色とはその最高法規的性格
【授権規範的性格】
 例えば日本国憲法の41条に「国会は唯一の立法機関である」と書いてあれば、それを基にして国会に対して憲法は立法権を付与していると、権限を付与する性格である。これが授権規範的性格である。
【制限規範的性格】
 その裏返しになるわけですが、立法権を付与するということは立法権以外は付与しないということを意味しますから、行政権は国会にはないわけです。ですから与えたものしかありませんよということになるわけでして、これを制限規範的性格という。そういう性格あるでしょう。
【最高規範的性格】 
 それから、ほかの法律とを区別した場合、憲法は最高法規だ、国家の最高規範であると。最高規範的性格があるのだと書いてあるわけです。それでもっともだもっともだと言って話が終わるわけですが、私はこういう考え方に対しては基本的に批判的であります。
 到底納得しがたいと私は思っているのですが、憲法をどう定義するかというのは言葉の問題なのかもしれませんが、どう定義するにせよそれに沿った性格を結びつけるべきであって、あるときにはこういう言葉で定義をし、ある場合にはそれに勝手な性格を付与するということは許されないわけですから、いったい実質的憲法概念のあるものからどうして最高法規性が出てくるのか説明をしてもらわないと、私は納得できないと思っているわけです。憲法を他の法規範と区別する法的な意味は、唯一その最高法規性にあると私は考えております。
 例えば授権規範的性格とか制限規範的性格などはどの法律にもあるわけでして、およそ法規範たるものは、何らかの権限を有し何らかの制限をしているわけです。それがない法律というのは世の中に存在しないと私は思っているわけです。例えば民法1条の3に「主権の共有は出生に始まる」と民法に書いてありますが、民事上の権利は、オギャーと生まれたらあげるよと言っているわけですから、生まれる前にはあげないからと言っているわけですので、これは授権規範的性格と制限規範的性格を持つわけです。そういう性格を持たないものは法規範とそもそもいわないわけです。事実をこう示しているなどというのは法規範といいません。太陽の周りを地球が回っているなどというのは事実の話であって、法規範とはいわない。
 法規範たるものは、すべからく何らかの授権規範的性格と制限規範的性格を持つのであって、それらさまざまな法規範の中から憲法を他の規範と区別する何らかの意味があるとすれば、それは他の規範よりも優位する性格、最高法規的性格というものを取り出す以外にはないと私は考えております。
実質的憲法概念への疑念としてー国家の根本秩序について示していない
 したがって憲法の本来的特色はその最高法規的です。そうすると、では何ゆえに憲法は最高法規たる性格を持つのか、あるいは逆に言うと、いかなる法規が最高法規性を持つ憲法と言えるのかということを解明せざるを得ないと思っているのです。こういう観点から、実質的憲法概念を見ますと、あとはここに書いてあるので読んでいただければと思いますが、実質的憲法概念というものを私が賛成できないのは2点ありますが、一つは、国家の根本秩序を定める規範だというわけだけれども、国家の根本秩序というものは何かということを示していないのです。どこにも書いていないのです。ですから、おれが国家の根本秩序だと言えば憲法になってしまうのかという、例えば日本でいえば日本国憲法を憲法でないと言った人をあまり聞いたことがありませんが、例えば皇室典範は何だという、これを実質的憲法と言えるかという設問をしたら、人の意見は分かれると思います。天皇という国家の象徴の地位の継承を定めるような規範であるから、これは国家の根本秩序に関係があるという人にとっては憲法だということになるでしょう。たかだか象徴の継承順位ぐらい何だって関係ないではないか、天皇がいるというだけが重要なので、天皇が必要だということは憲法に書いてある。だけれども、その順番がどうであろうと、男の天皇を認めるか女の天皇を認めるかなどというのは、国家の根本秩序とは直接関係あるまいという人にとって皇室典範は憲法でなくなるわけです。
 自衛隊法はどうだという、あるいは公選法はどうなのだということを自分で設問していくと、その答えを一義的に自分で確定できる人はたぶんいないと思います。なぜかというと判断基準が示されていないからです。
 例えば先ほど言った食肉獣を屠殺する場合には麻酔をしてから殺せというのは、いかにも国家の根本秩序と関係がない。動物愛護法か何かで定めておけばいいと思うのがほとんどですから、それはもっともだと思うのですが、実は大うそでして反ユダヤ法なのです。ユダヤ的屠殺法を禁止することによって、スイスからユダヤ人を追い出してしまおうという法律なのです。これはドイツをまねたのです。それでそういう法律をつくれつくれと言ったら、スイスの国会議員は良識があったのでしょう、つくりたくなかったのです。そんなものをつくれるか、人種差別みたいなものをと。そしたら何と当時の19世紀のスイスですが、それならばあそこは直接民主主義的な要素の強い国ですから、イニシアチブにかけて自分たちで憲法改正を発案しまして、国民投票にかけさせたのです。そうしたら通ったのです。そして憲法の中に書き込んでいるのです。ですからあれは全くの動物愛護法というものではなくて、ユダヤ人排斥法でありまして、ではそういう法律は国家の根本秩序と関係あるのかと設問し出すと、どうかなと、やはり人の意見は分かれるでしょう。
 つまり国家の根本秩序といってもはっきりしない。はっきりしないものを定義の要素に置いておくというのは、学問としてはいかがなものかと思います。これが第1です。
実質的憲法概念への疑念としてー通俗的見解に立てば、憲法違反の法規は憲法放棄
 第2はもっと根本的なもので、自衛隊法が憲法違反であるという憲法学者は非常に多い。しかしながら、日本国憲法第9条は、憲法の通説的見解によれば、非武装によって国家の安全を保とうという考え方です。軍隊を一切持たないと。これほど国家の根本秩序にかかわるような規範もないわけですので、憲法9条を憲法規範でないと言った人はいません。では自衛隊法はどうだと考えてみると、武力をもって国の安全を保とうという法律です。これが国家の根本秩序にかかわりがなくていったい何だというのでしょうか。当然に国家の根本秩序に密接にかかわる法規範であって、実質的な憲法規範であるとしか言いようがあるまいと私は思っているのです。つまり実質的憲法概念に立てば、ある憲法規範に違反する法律があるとすれば、それは当然、必然的にもう一つの憲法法規と言わざるを得ない。つまり同じことを違ったふうに定めているから憲法違反という観念が出るのですから、同じことを定めていて、その重要性に違いがあるなどということはあり得ないのでありまして、したがって通説的見解に立てば、憲法違反の法規は必ず憲法放棄である。ではどっちが優位するのだと。それに対する回答は決して出てこないと私は思っておりまして、したがって通説的見解に対しては全く納得しがたいというのが私の立場であります。
 したがいまして最初に言いましたように、私がいま言ったことを頭からうのみにしまして、あいつがそう言っていたから、憲法学会ではみんなそう言っていると思われると、大変問題ですので、ある憲法学者はそう言っているということで理解をしていただきたいと思います。どちらが正しいかということは皆さんに考えていただくしかない。もちろん私は自分が正しいと思っていますが、いかなる憲法学者とも論争しようと思っていますが、そういう考え方に立つ者と違った考え方に立つ者がいるということであります。
法規範の上位関係は本人対受任者
 では、最高法規としての憲法というのは何だということを私の立場から考えてみると、これはもう法規範の法理論の普遍的な理屈ということになりますが、ある規範の上位関係は本人対受任者です。本人と代理人の関係で全部説明しているわけです。例えば、ここには連合北海道の方とか民主党北海道の方がいらっしゃいますが、党の最高決議機関はどこだ、組合の最高決議機関はどこだ。これは全て総会です。その総会で決めたことに従って、会長であれ組合の委員長であれ党首であれ動くのです。なぜ総会の意思が委員長の意思に優越するかといえば、総会の方が本人だからです。総会が委員長に権限を委任しているわけです。だから委任した側が上位に立ち、受任した側、委任を受けた側が下位に立つわけです。すべて法律理論はこれで成り立っているわけです。だから例えば法律と政令を比べたら法律が上であります。政令と省令を比べたら省令が上です。なぜかというと、国会が内閣に立法権の一部の権限を委託しているからです。だから委託した国会の意思に反して内閣は政令をつくることはできません。
 という関係で全部決まっているわけです。だからお父さんが子供に300円渡してセブンスターを買ってこいと言ったら、子供はセブンスターを買ってこなければいけないのです。チョコレートを買ってきて食べてはだめです。なぜかというと、買ってこいよと言って金を預けたお父さんが本人でして、子供は召使なのです。それは別に奥さんだって、逆だっていいのです。お父さんが子供の召使になっても構いません。そういう関係に立っている。すべてわれわれの法律関係はそのように構成されているのですよ。
法律とは議会制定法としてつくった主体で定義、一方憲法は国家の根本法規
 法律を学んだ人には釈迦に説法かもしれませんが、憲法の下に法律があり、法律というのは議会が制定した。国会がつくったルールがあり、その下に内閣が作った政令があり、その下に省がつくった省令があり、そのもとに何とかがつくった何々がありと末端の規則があるでしょうと言っているわけです。これを法の段階構造と呼んでいますが、これを否定する人は法律家にはいません。これは憲法学者のみならずです。
 おもしろいのは、いわゆる法律というのは何ですか、形式的意味の法律とは何ですかというと、だれしも議会制定法と答えるのです。議会が制定したルールを形式の意味の法律というのだと言うのです。政令とは何ですかと言うと、内閣がつくったルールをいうのだと。省令とは何かというと、省がつくったルールですと答えるわけ。では憲法は何ですかというと、国家の根本法規だと答えるのです。これで納得してる人の頭がわからないです。つまり憲法以外の定義はすべてつくった主体で定義しているのです。国会がつくった、内閣がつくった、省がつくった、大学がつくったとか末端の人間が、誰が決めたルールだと、全部主体で分けているわけ。一番頂点にいくと、誰がつくったか言わないで内容で答えるのです。こんな定義の仕方は普通ないでしょう。一つの要素で定義を分けていかなければならないでしょう。だから身長150センチ以下の人は小さい人、160センチから150センチは中間の人、それ以上は大変大きい人と身長で分けていったら、一番最後は体重120キロ以上の人と言っている。そんなばかな定義、分類はないのです。身長で分けるならずっと身長で分けていかないと、体重で分けるなら体重で分けていかないと分類とは言えない。にもかかわらずなぜか法規範については、あるときには主体で分類し続けていて、突如として内容の分類が混在している。そのような考え方は到底論理的に納得できるものではないと考えているわけです。
最高法規のルールとして国家の主権者は国民
 もとに戻りまして、したがって最高法規であるルールというのは国家の主人、すなわち主権者がつくったルールだとしか言いようがないというのが私の考え方です。そういう考え方に立てば、残された問題は国家における主人、主権者は誰かという問題に帰着するわけでして、それは延々何百年にもわたって議論されたことですが、今日そういう人間の知的営為の結果、国民こそが主権者であるという国民主権の理論というものが確立され、それを日本を含め世界の非常に多くがその理論を受け入れ、それに立脚して国家秩序というものを構成しているのであると言えるであろうと思います。
 
〔二〕国民主権原理
国民主権の出発点は個人
 では、われわれの立脚している、誰しもが口にする国民主権、民主主義という理論はいったいいかがなものであるかということをきちんと確認しておく必要があると思います。
 2ページの〔二〕以下のところに、しつこいようですが国民主権というものの考え方をも確認しておこうということで書いているのです。
 個人から出発するわけです。国民主権の出発点、ここから先は例えばロックだとかルソーだとかシエイエス(Sieyes)だとかそういう人たちが展開した議論をまとめたような形で書いているのですが、まずわれわれはなぜ人の命令、やれ国家のルールに従わなければならないのだろうという設問から始まるわけでして、自分の存在というものをいかなるものか確認してみようではないかと、よく個の人間は自由だとこう言いますよね。天賦人権を持つだとか、我々自由な者として生まれるというわけですが、なぜ自由なのか。これについても、みんなずいぶん考えたわけです。自由でないという人ももちろんいますから。人間本来自由でなんかないのだという人だっていますので、それと論争して勝たなければいけません。それで長い間いろいろな人がいろいろなことを考えましたが、ルソー的な考え方なのですが、こうも言うわけです。自分というものを他の社会関係から切断された一個の人間として見ると。
 私は小樽の人間ですので、授業で学生に言うときには、例えば天狗山とか銭函海岸に一人でぽつんと座っているところを考えてみましょうと。周りに誰もいない。一人でじっと考えてみる。自分とはいかなる存在であろうか考えてみようと。そうすると当たり前ですが、他人がいませんから自由です。どんな神様を信じようと信じまいと全く自由です。どんな歌を歌おうとどこに歩いていこうと全く自由である。これが人間の本来的な姿だと言った人がいるわけです。当たり前といえば当たり前ですが、つまり私はこう思うのです。他の社会的関係から一切切断された一個の独立した人間として自らの存在、人間の存在を考えるということは、すなわち個人として人間をとらえることである。個人というのはインディビジュアルの日本語というか漢語訳ですが、インディビジュアルというのは、もうこれ以上は分けられないという意味です。ディバイド不可能なものという意味ですが、分けていって半分の人間はいませんから、一人というところまで分けていったときに、もはやインディビジュアルなものになる。それを個人と翻訳しているわけで、つまり我々が人間を個人として観念するということは、すなわち自由な者として観念するということを意味するのだということを明らかにしたのであろうと思っていまして、私はこういう考え方に対して非常に強く共鳴するものであります。そこからすべての理論を構築していくわけです。
 つまり、社会的関係から分断された独立した一個の人間として人間存在を観念するということは、すなわち人間を自由な者として観念するということである。つまり個人主義であり、自由主義でありますが、民主主義を支える基本的な観念は、そういう意味では個人主義であり自由主義です。万人が同じ関係に立つわけですから、何も私だけが天狗山に登れば自由になれるわけではないわけでして、人間だれしも一人でいれば自由なわけですから、万人はすべからく自由である、等しく自由であるということになる。
民主主義を支える観念は、個人主義、自由主義。自由性において平等。
 自由、平等というけれども、自由かつ平等というよりは自由性において平等であるというのが正しい。例えば、背の高さも違えば、声の大きさも力の強さもみんな違うわけでして、人間は物理的要素においてはすべて不平等、しかし、何ゆえに万人は平等だというかというと、その自由性において平等なのであるということです。その自由な人々が他人と関係を結ぶことによって相互拘束の中に生きるということになるとすれば、その正当な契機、きっかけは何であろうというのが民主主義の出発点ですが、つまりここから先は正当性の原理でして、なぜ国家ができるかというのは、歴史的にどのようにして国家が形成されてきたかということを事実として解きほぐそうというのではありません。事実が何であろうと、われわれが正当なものとして承認し得る国家秩序、あるいは人間的関係とは何かということを解明しようということです。
正当な権利義務関係、人間関係を生み出すのは、自由な人間の合意だけ
 「力は権利を生み出さない」という有名な言葉がありますが、例えば夜のすすきのを歩いていて、怖い角刈りのかまぼこの指輪をしたお兄さんがやってきまして、「ちょっと兄ちゃん、金貸してくれないかい」と言われれば貸すのです。というよりあげてしまうわけです。何も命がけで戦わなければならないというばかな話もないわけで、もちろん戦ってもいいのですが、命が惜しいから大抵の人は出します。では、そのような行為によって暴力団員は正当な所有権を獲得するのか。われわれは、金を払うことを義務づけられるのかという問いをこの民主主義者たちは発しているわけです。そのようなことにはならない。われわれは命が惜しいから事実として金を払うかもしれないけれども、それによって相手方はいかなる正当な権利も獲得しないのである。だから、我々が警察に駆け込んでいって、「暴力団からいま金をゆすられたんだ、取り返してくれ」と言えば、警察が行って取り返してくれる。本当にくれるかどうかまではちょっと。われわれはそれによって所有権を失わないわけです。つまり、暴力、力というものは、いかなる正当な関係も生み出さない。権利義務関係を生み出さないのだというわけです。ですから何がわれわれの正当な権利義務関係、人間関係を生み出すのでしょうというと、自由な人間の合意だけだというわけです。お互いに合意し合ったから、つまり約束は守れということに結局帰着するのだいうのが、現在のあらゆる社会関係の基礎なのです、これが。だから、国家というものにわれわれが拘束されるのは我々が国家をつくろうということに合意したからである。結婚しているのも、「婚姻は両性の合意によってのみ成り立つ」というのは、結婚しましょうと約束したからやめたいのなら離婚するのです。すべてそういう関係。われわれの合意すなわち契約というものが、あるいはもっと言えばその背後にある自由意思というものが、われわれの社会関係の基礎を形成しているというのが、あらゆる民主主義社会における法理論の基礎にあるというわけです。
人間の自由意思が社会関係の基礎を形成しているー民主主義社会の法理論の基礎
 これは、私は繰り返し繰り返し確認しておく必要があるのだと思っているのです。また大学の話を言って申しわけないのですが、学生に言うときにはこう言っているのです。私は小樽商科大学ですので、あなた方が小樽商科大学の第1期生だと思えと。そうすると例えば野球をしたい人間がいるとします。野球する権利があります。野球する権利があるといっても1人ではできないのです、これは18人いないとできないです。そこで、抽象的な我々の権利というものを具体化するためには他人と協力せざるを得ない。
 例えば道を歩いていいと言われても、道がきれいでなければ歩けません。生きていく権利があると言われても、クマに食われたら終わりでして、そういうものとたたかうためには、実現するためには、人と協力せざるを得ないわけです。したくなくてクマに食われる人は自由です。野球の話に戻れば、野球をしたいので野球部をつくろうではないかと誰かが提唱します。それを強制する権限は誰にもないわけですから、よしおれもやろうと合意した人間が野球部をつくるわけです。これと同じです。
 国家をつくろうではないかと言ったら、よしつくろうという人たちが集まって国家をつくるのだと。嫌な人はテニス部をつくったり、日本という国がいやで違う国をつくればいいだけの話ですが、そういう合意をしてその社会を形成するということになるはずです。そうすると、そこには共通の事項というものが生まれるから、それをどうやって処理していくかという話が生まれくる。そこにいわゆる民主的な決定手段という話になってくるわけですが、何れにせよその社会集団というものはお互いに結合に合意した人たちによってのみつくられるし、出ていきたい人は出ていけるのだということしか考えられないでしょうと言っているわけです。野球部が仮にできたとすると、これからみんなで相談をして野球部の経営の仕方について決めていかなければならない。これがいわゆる総会です。
 総会でいろいろなことを決めていく。1回その団体ができれば、何もみんなで仕事を一緒になってしなくてはならない理屈はないわけで、例えば小樽商科大学の野球部が北大の野球部と試合をしようというときには、何も部員が50人もそろってぞろぞろ北大まで行く必要はないのです。渉外係のようなのが行って交渉してくればいいわけです。そういう仕事をだれかに与える。できれば文書化して将来にわたってそういうものをルール化しておいた方がいいわけで、そういうものを決める。だいたい会則とか部則というものをつくります。この会則や部則をつくれる人は総会以外にはありません。これは部長もいなければだれもいないのだから、だからみんなで相談して決めるしかない。総会がその部則を決めることができる。その部則に従って部長であれ会計係であれ渉外係であれ動くわけですから、彼らの意思よりもその総会で決めた部則の方が優位するという関係です。その部則を国家においては憲法と呼んでいるのです。
〔三〕憲法論の総括
憲法制定権力は主権者国民にのみ帰属
 だから今の理屈を憲法学的な言葉をつかって言えば、最高法規たる部則すなわち憲法は、部員総会すなわち国民の全員の合意によってしかつくられない。すなわち憲法制定権力は主権者国民にのみ帰属する。こういう結論になるのである。そして、憲法は他の、つまり部則は会長の意思や会計係の意思に優位していますから、部則に反する、例えば部則で年会費1,000円と決めているのに会計係が5,000円取りに来たって払う必要がないわけだから、だから部則に反する会計係の言うことに従う必要がない。つまり憲法に違反する一切の詔勅・法令、国家行為は違反、無効であると、従う必要はないと、こういうことになるのだということになるはずである。
 つまり憲法とか何だとか難しい言葉をつかっているけれども、あらゆる団体に共通の原理を法律上の言葉をつかって説明しているに過ぎないのであって、この理屈が理解できないのであればどの団体に行ったとしてもできないし、あるひとつの団体でこの理屈が納得できるのであれば、国家レベルにおいて民主主義を理解できないはずがない、と私は思っているわけですから、憲法の言葉をつかって面倒くさくなれば野球部とか組合とか、ちょっと身の回りの人間集団のことに置きかえて考え直してみればわかる理屈だと。わからないのだったら、たぶんどこに行ってもわらかないです。もはや、政党に行こうと組合に行こうと野球部に入ろうと、もはや民主主義的な理屈は全然わかりませんという話になるのであろう。こういうことであります。
国民投票にかけることなく、国会議員の三分の二の賛成で憲法改正を画策する動きも
 部則を改正する権限は誰にあるかというと、部則をつくるという行為と改正するという行為は実質的に同じです。全面的改正するのであれ、部分的に改正するのであれ、憲法学上の言葉を使えば、憲法の仮に一部を改正する行為の本質を考えれば、ある条文をいったん廃棄し、そこに新たな憲法規範を定立する行為としてしか憲法改正行為を理解することはできませんから、新たな憲法規範の定立行為は憲法制定権力の行使ですから、それは主権者国民のみがなし得ることであって、それ以外の一切のものはなし得ないというべきである。これは譲れない一線であると私は思っているわけでして、今日多くの憲法改正草案に見られる国会議員が3分の2賛成すれば、国民投票にかけることなく憲法改正することができるようにしてしまおうという議論がありますが、そのようなことは決して許されない。それは憲法制定権力の簒奪である。国会議員による横領であるというべきであると私は思っているのであります。それはいま言ったような理屈から、憲法制定権力は国民にのみ帰属し、憲法改正権の本質、憲法制定権力の行使にあるから、それは唯一主権者国民のみがなし得ることだというところから来るものであると思います。
半分以上の憲法学者は、憲法改正限界論。憲法の基本原理は改正できない。
 そのように憲法制定権力の行使として憲法改正権を理解するのであれば、これは法律の常識というか憲法学の常識なのですが、憲法制定権力というのはそれを拘束する上位の権限がないという考え方ですので、法的には無拘束なのです。無限界です。だとすると憲法改正行為も無限界というべきである。
 つまり半分以上の憲法学者は、憲法改正限界論に立つものでありまして、日本国憲法には改正できない部分があるというのが戦後の憲法学の通説です。何が改正できないのかというと、人によって違うのですが、いちばん多いのは憲法の基本原理は改正できないと言うのです。憲法基本の基本原則とは何ですかというと、これも人によってちょっと違いますが、大方一致しているのは国民主権、平和主義、基本的人権の尊重などというのが三大原理だというわけです。そうすると平和主義は改正できないです。いくら96条の所定の手続を経ても、つまり国会で3分の2の多数で発議をし、国民投票でかけて国民が賛成しても憲法9条変えられないという話です。
主権者国民が変えようと思って変えられない憲法規範はない
 私はそんなばかな話があるかと思っている立場です。主権者国民が変えようと思って変えられない憲法規範はない。もしそのようなものがあるとすれば、それをつくった人間が、それを動かせないように主権者になってしまう。われわれが主権者でなくなってしまうということになるだろう。これは改正したらいいかどうかの話をしているのではないのです。改正に賛成するかどうかの話をしているのではありません。法律上の限界があるかという話をしているわけです。ですから私は限界はない。どのようにでも国民が望めば憲法を変えることができるという立場の者であります。たぶんこの話はいずれ出てくるのではないでしょうか。この部分は変えられないという人が必ず出てくるということになるだろうと思います。これは議論していると長い話になるのですが、気持ちはわからないでもないのですが、戦争で負けてやっと平和な民主国家になって、まだ明治憲法の方がいいと思っている人が世の中にいっぱいいるころに、新しい憲法に喜んだ憲法学者は変えられたくなかったわけです。だからいくら国民投票などにかけてみても、変えられないものがあると言っておくと、「変えられないのか、じゃあやめよう」というふうに思うだろうと思ったのでしょう。そうやって憲法を守ろうとしたのだと思うのですが、気持ちはわからないでもないけれども、理屈としては通らないと私は思っています。
時代とともに憲法の意味が変わるという憲法変論、憲法解釈論の横行
 それからいま言ったように憲法というものが国民が表明した意思であるということになると、それは憲法制定したときに表明されてしまっているわけだから、その憲法が改正されるまでは、その意思が変わるわけがないわけでして、時代とともに憲法の意味が変わってしまったなどとばかな話があるかと私は思っています。つまり時代とともに憲法の意味が変わるというのは憲法変遷論というのですが、そのようなことはあり得ないというのが私の立場であり、また憲法の解釈というのは、その表明された意思というものを確定する作用、どういうつもりでつくったのかということを知ることが憲法の解釈だと思いますので、一般に許されているように憲法なんていろいろな解釈のやり方があるので、自分に都合のいいのを自分の価値観に従ってある一つを選べばいいのだといような、これが多数なのです。そんなばかなことがあるのかと私は思っています。だから、すごく不思議なのですが、法学者のたぶん過半数が今のようなことを言うのです。結局いろんなふうに解釈できるので、その中の自分にとっていちばん都合のいいものを選択しているだけなのです。こういうのがもっともだと言うのであれば、これは自民党が言っていることがもっともな話で、もう集団的安全保障、集団的自衛権の禁止だなんてやめようと。今までは、それが禁止されていると解釈してきたのだけれど、これからそういう解釈は捨ててできるような解釈を検討しましょうなどと言っているでしょう。私は解釈が正しいかどうかは別として、そういう態度が認められることが全く理解できないのです。
政府の相次ぐ憲法解釈論とそれを容認してきた国民こそがおかしい
 例えばよく言うのは、野球の選手が野球のルールブックでストライクゾーンが決まっているわけです。バッターに立っても、見逃し三振が多いから、三振が少なくなるようなストライクゾーンを狭くするような解釈をいま検討中であるなどと野球の選手が言ったら、あいつはバカかと思うでしょう。野球のルールブックでストライクゾーンは決まっているのです。そんなバッター1人の主観でストライクゾーンが動いてはたまらない。だから誰もそんなことは言わない。監督もピッチャーもバッターも言わないわけです。今のストライクゾーンでまずいなと思って、ルールブックを改正しようという人はいるけれど、それで時々改正されるのですけれども、だけれども、おれは三振が多いから三振の少なくなるようなルールブックの解釈を目下検討中ですなどという野球選手の存在は聞いたことがないわけでしょう。だけど野球選手だと、あいつはバカかとみんな思うのでしょうが、こと憲法になると、やっているのが政府だったりすると、もっともらしい話になる。
 というわけで勝手に、この間まではそういう解釈をしたけれど、今度はやめた。これからこういう解釈でいきますと。それを国民がそういうものかと思って見ているわけです。そうしたらどこまでだってえくではないですか。こういう状況を放置しているというか、容認しているということ自体がおかしいと思わないことには、いくら憲法など改正しようと、守ろうと、意味がないと私は思っている。
自民党が憲法を改正する意図は? 自衛隊が憲法9条に違反しないならその必要はない 
 だから私は自民党が憲法を改正しようということの意図がわからないとわざと言っているのですが、例えば自衛隊が憲法9条に違反しないと本当に信じているのなら、9条改正する必要はない。何もこれは今のままでいいではないですか。改正禁止などされていようと守る気がないのであれば新しい法律なんかつくる必要がない。最初から守る気がないのだから。だから自民党が憲法9条を改正しなければならないと思っているのが私には全く理解できないのです。要するにご都合主義なわけです。嫌なものは守らないと言っているわけです。都合のいいものは強制するぞという話です。そういうのは法理論とは言わない。そういうものを国民が、さももっともらしく容認しているということの方が、憲法9条が改正されるかなどということよりも本当は重大な問題なのではなかろうか。つまり憲法とか法とかいうものに対する観念とか、あるいはその背後にある民主主義というふうなものに対する観念が、実は国民の中に定着していないというところに日本社会の非常に大きな問題があるのではないかと私は思っているわけで、憲法改正の話がテーマであるにもかかわらず、憲法とは何かということを延々話していてお耳ざわりなことを申し上げているのは、そういうところによるものでございます。
 
〔四〕民主主義社会における国家の存在意義と「自由」の意味
 この民主主義における国家の存在意義と自由の意味というところは、わざわざ頭にきたから書いておいたのですが、経団連の示す「夜警国家論」的な観念、それから近年ネオリベラリズムなどといって、ちっともネオでも何でもない。新自由主義とかいうけれども、新でも何でもない。19世紀ごろに破綻してしまったことのやき直しを言っている学者だとか政治家だとか経済界の人間がいるので、何を言っているのだ、国家とはそういものではあるまいということを言いたいために、ここにわざと書いておきましたので、あとはお暇なときでもご覧ください。
 
二 日本国憲法の制定とその後の空洞化
まぎれもないおしつけ憲法、支配勢力は反対、国民は圧倒的に支持
 憲法の空洞化というか戦後社会というものを一回見直してみたいと思うのですが、日本国憲法が戦争に負けた結果、1946年にできるわけですが、押しつけ憲法だ何だと言いますが、時の支配勢力にとっては紛れもない押しつけ憲法です。彼らは明治憲法を基本的に変える気はありませんでした。彼らが提出した憲法改正草案は全く言葉をちょっと書き換えたぐらいのものでして、変える気なかったわけです。それでマッカーサーさんは怒ってしまったわけです。おまえらに任せたらろくなことをしないから、自分たちでつくってしまおうというわけでして、自分たちで法律家を集めて憲法草案をつくって政府に突きつけたわけです。こういう草案をつくったから、これでやるか自分のでやるか国民に聞いてみようかと脅しをかけたのです。そうしたら、どう考えても負けそうだから「はい、わかりました」とこういうわけで、マッカーサー草案をもとにして日本国憲法の制定、採用に入るということですので、延々押しつけ憲法だと言っていますが、彼らににとっては、まぎれもない押しつけ憲法です。では国民全体にとって押しつけ憲法かとなれば、人によって考え方違うでしょう。法的手続からいうと押しつけでも何でもないので、明治憲法の制定手続を全く完璧に踏襲しまして、改正という形でやったのです。それで、どこで押しつけと言い、どこで自主的と言うかというのは、人の観点の置きどころによって違うかもしれません。
 何れにせよ憲法をつくろうとした当時の、国会議員が支配勢力だとは言いませんが、日本の支配的な勢力から見れば好ましからざる憲法であった。国民の圧倒的多くはこれを支持した。これは当時の新聞の世論調査を見れば一目瞭然わかるわけです。
時の支配勢力は反憲法的姿勢、アメリカの対日政策より民主化政策から再軍備政策へ
 これが大変不幸な戦後社会の基盤をつくるわけです。普通の国は革命が起きるのです。戦争で負けるにせよ、勝つにせよ、新しい憲法をつくるのは支配勢力がつくるわけです。権力を奪取したままつくるわけです。だから時の支配勢力は憲法擁護者でありまして、野党が反憲法勢力というのが普通の形です。ところが日本の場合は、まさにアメリカという外圧のもとで無理やり憲法を簡単に言えば押しつけられた。時の支配勢力が反憲法的なわけです。全く逆転現象をきしているわけです。という世にも不思議なというか、珍しい憲法の出現、あるいは戦後社会の展開ということになるのでしょう。アメリカの背後にいて日本を民主化しようという時代があったり、反共の防波堤にしようとする時代があったりして、現在は後者なのですが、1950年の朝鮮戦争の前夜からレッドパージを始めて、そして朝鮮戦争に備えるということになりますから、ここら辺からもうアメリカの対日政策はまた180度転換をして、日本のいわゆる逆コースというのか反転現象が始まる。
憲法空洞化の推進勢力は、永久戦犯等の公職復帰組  
 その動きを支えたのが、いわゆる公職復帰組でして、永久戦犯あるいは永久戦犯容疑者と、それから鳩山一郎氏のような公職追放組。鳩山さんは戦犯ではありません。そういうものが50年前後を境にして全部復帰してきます。戦後釈放されたような人々がレッドパージで排除されていきます。血の入れ替えがもう一回起こって、戦後解体されていた暴力団なども復興してくるのです。
 というわけで、例えば永久戦犯の容疑者として悪名の高かった岸信介は内閣総理大臣に返り咲きます。公職復帰してきた鳩山一郎氏も後の内閣総理大臣になります。鳩山由紀夫さんのお祖父様です。鳩山一郎氏の評価は様々です。リベラルだったという評価もあれば、戦前の大学弾圧の筆頭で右翼だったという人もいれば、世界的に見ると日本の中でほとんど唯一名前が世界に知られているフリーメーソン(Freemason)の会員です。不思議な方です。そういう意味では、鳩山一郎さんという方は、非常にインターナショナルな方ではないでしょうか。そのお孫さんが民主党の代表になっておられたりするわけですが、その評価は人様々でしょうけれども、そういう方です。
 そういう様々な人たちが戻ってきまして、我が国の戦後社会というものを指導していくという、ここら辺は私は大変おもしろく見ているところでして、表舞台の事件を見ているより裏舞台の事件を見ている方が、日本の社会の本質がよくわかるだろうという気がしているところです。
 例えば河野洋平さんのお父さんの河野一郎と右翼の筆頭の児玉誉士夫、それから稲川組という日本第2の暴力団の親分が3兄弟です。兄弟の杯をしているぐらいの仲です。これはものすごい癒着。読売新聞の正力松太郎は永久戦犯容疑者。警察官僚上がりがどうして読売新聞を買収できたのかわりません。ライブドアならわかるけれど。警察官僚ごときがどうして新聞社を買い上げられるのかわからないが、読売新聞を買って戦争を更正してたわけでしょう。それが戦後マスコミ界を牛耳るわけです。力道山がプロレスの親分になっていますが、日本プロレス協会の役員名簿を見たら暴力団の名鑑ですから。田岡とか児玉誉士夫とか稲川だとか、こういう暴力団の親分がずっと並んで大変なものです。それを放送していたのが読売テレビ。何かそういう関係を見ている方が日本の社会がよくわかるなというくらいですが、今日に至るまでそうやってずっときているわけです。
憲法規範はなしがしろ、憲法全体の空洞化が進む
 そういう戦前に郷愁を持つ人々が、日本国憲法の中で社会を動かしてきたということですので、私などの目から見ると、憲法は至るところで割り引かれている。それを言うなら、つまり空洞化していると言えると思うのです。よく憲法というとすぐ9条とくるわけですが、9条は大変大切なことですが、実は9条に劣らず様々な憲法規範がないがしろにされているわけです。
ー公務員の労働基本権の禁止ー
 例えば憲法の28条に労働基本権の保障があるか。公務員は別なので書いていないわけです。ところが公務員のスト権は一律全面禁止でしょう。それから自衛隊も警察も組合がない。私は非現業の国家公務員ということになるのですが、これは、この間まで公務員だったからなのですが、団体交渉権がないわけです。こんなばかな国はない。フランスだって、アメリカだって警察は組合を持っているわけです。まさか戦争の最中に北部方面隊がストライキですという話にはならないでしょう。だから職場復帰命令を出すとかいろいろな制限を課しているのですが、組合もつくらせないし団体交渉もさせないということ自体がおかしいわけです。ILOから散々文句を言われても全然直さないわけです。これは憲法規範の蹂躙であり、人権の侵害ではないですか。そういうことはいっぱいあるわけです。
ー司法の人権侵害ー
 例えば、刑事事件の容疑者の人権などを考えたら、むちゃくちゃですから。私が不思議なのは、典型的には西武の堤義明が逮捕されたでしょう。あれは23日間ぐらい入っていたのではないですか。そんな23日間も未決勾留というか、起訴もしないで留置してられる国は日本しかないわけです。だいたい警察が捕まえておけるのは48時間です。我が国は23日間捕まえているわけです。それをたらい回ししようと思ったら、もっとできるのです。堤さんはたぶん途中から拘置所に入れられたのです。だけれども、ほとんどの人間は留置所に入れられているわけです。これは人権侵害も甚だしいのです。だけども国民は誰も批判しないでしょう。だから堤義明にしても、「捕まってよかった」ぐらいのものなのです。そう言っているうちに自分の番が来るわけです。どうも自分のこととして考えないわけです。だから人権関連が希薄だということは民主主義に対する考えが希薄だということですが、そうやって日常生活的に憲法の秩序が掘り崩されているわけです。9条だけが憲法問題では決してないのです。だからいわゆる護憲派といわれる左翼、昔でいうと社共に組みする左翼勢力が問題だったと私は思っているのです。
ー在日外国人に対するむちゃくちゃな処遇ー
 北教組関係の方もおられますが、子供を戦場に送らなくていいとして、だけど子供を戦場に送らないのと同じように向こうのダミーを留置場に送っておいてはいけないでしょう。いろいろなこといっぱいあるのです。だけどなぜか9条のことだったら過敏に反応するけれども、日常の、例えば浮浪者の人権とか外国人が、外国人といっても在日外国人に対する、在日韓国人、在日朝鮮人に対する日本の処遇などむちゃくちゃです。
 指紋押捺を強制して、サイゼンアイという女性がいますが、高校生のときに父親と一緒に指紋押捺を拒否したわけです。そしてその後にアメリカに留学が決まったのです。出ていけなかったのです。出ていったけれども。1回国を出て行くのは勝手ですが、外国人はもう1回入って来させないです。在日です。アメリカに出ていくのは勝手だけれども再入国は認めないと日本は言ったわけです。そうしたら彼女はどうすればいいのですか。全部家族も家も皆置いて、二度と再び帰って来ない覚悟でアメリカに留学するか、一生日本から出ない覚悟で日本に留まるかの二者択一でしょう。そういうことをやっているわけです。そしてそれを裁判にかけると、最高裁までいって負ける国なのです。酷い国なのです。そういうことがずっと起きているわけです。だけれども、そういうことに対してほとんど国民は興味を示さないのです。だからこういう社会になるのだと私は思っているのです。下手すると、ざまあみやがれみたいな話ではないですか。自業自得ではないかとどこかで笑われているような気がする。
空洞化のなかで憲法を自分のものとして考えるいい機会である
 だからこういうところから原点に立ち返って、われわれの住んでいる民主主義社会というのはどういうものなのか。守るに足るものなのか。われわれは本当にこの憲法の秩序に守られているのか。あるいはもっと翻って今の憲法のままでいいのかとか、そういうことを根本から問い直してみる価値があると私は思っているのです。だから、やれ護憲だ改憲だ創憲などと何でもいいけれど、結論はどうでもいいけれど、やはり憲法というものをもう一回自分のものとして考えてみる非常にいい機会だと私は思っているのです。
 憲法の空洞化というのは、そのように社会全体、憲法全体の問題であるということを肝に銘じておくべきである。だから9条さえ守られれば憲法を守られたとは言えないと私は思うのです。だいたい9条が残っていても自衛隊が残っているのでは、憲法を守られていると言えないでしょう。憲法が条文だけ今のまま動かなくても、全然人権も何も守られないような有事法制がどんどん出てくる、プライバシーは守られない、勝手に徴用されるでは、憲法を守られたと言えるのかという話です。そういうのに賛成してくる政党も政党だと言いたいのです。それは何なんだと思っているのです。
 
三 改憲論の動向
憲法改正が本格的に論議されたのは鳩山内閣
 空洞化の話はこれくらいにしまして憲法改正の話の移りたいと思いますが、我が国で憲法改正が最も本格的に議論された最初は鳩山内閣のときです。小選挙区制を導入し、憲法を改正しようという動きを正面切って打ち出したのですが失敗しまして、しようがないので内閣に憲法調査会をつくって、一生懸命調査をして報告書をあげて終わったのです。現実化しませんでした。ついに国民の多数を結集できるような運動として結実しなかった。そこで、右翼関係の人々の書いている本を見ると、彼らは戦後何十年の間、われわれは敗北の連続であったと書いています。
 私はこういう場で言わせてもらうのですが、非常に意外だったのです。私などは、憲法が割り引かれてくる歴史、逆にこっち方からすると敗北の連続のような、そういうふうなものと戦後を見ていると、右翼は右翼で自分たちを敗北だと思っているわけです。それを見て私はずいぶん元気づけられました。なるほどとわかります。彼らは憲法改正を目指していたのですから、ついに実現しなかったのです。その中で結構右翼の人などもう死んでしまったのです。理想を達成できなくて死んだ人もいっぱいいるわけです。だからわれわれもそうなのでしょう。自分の思っているより世の中がさっと動くなどということはお互いないので、自分の主張を繰り広げながら、あるときには敗北を覚悟し、あるときには勝利に喜び、そういうことを延々と積み重ねていくしかないのかと思ったりして、逆に右翼から力づけられたりしているのですが、80年代が終わるまで憲法の改正は現実問題として俎上に上らなかった。
1991年の湾岸戦争をめぐって自衛隊の海外派遣が論点に
 しかし大きく転換するのは91年の湾岸戦争のときです。これで世論は大きく変わります。国際貢献というのです。つまりはペルシャ湾に掃海艇を出し、その後PKOとして自衛隊を海外に派遣するという動きの中で国際貢献をしなくてはいけない。日本は一国平和主義でいいのかという議論がワーッと展開され、これが今日の土壌をつくっているのです。大学の中などを見ても、学生の意識はこのときに非常に大きく変わります。私はもっともだと思います。自衛隊を海外に派遣して国際貢献だというのが間違いだと思っていますが、自衛隊を出すなというならば、違う国際貢献のあり方をもっと積極的に打ち出さないといけないのだろうと思います。学生などは、カンボジアにせよ、ソマリアにせよ黙って見ていていいのかという人がいっぱいいるわけです。何も自衛隊に入って行こうなどという話ではないです。日本は彼らのために働くべきだと。うちは小樽商科大学だから医者はいないですが、本当だったらわれわれ国境なき医師団に入って行きたかったなんていっぱい言えるわけです。なれたかどうかは別なのです。もっともな部分はある。
自衛隊の海外派遣、国際貢献をめぐって憲法論議が活発化、様々な改憲論
 だからこの91年以降は、世論は大きく転換するということになるのです。そのキーワードは国際貢献でしょう。そしてワッと憲法論理がここで展開され、7ページに書いてあるように様々な改正論がこのときに登場してきます。
 おもしろいです。改憲派も一枚岩ではないのです。いろいろな人がいます。西尾幹二に代表されるように、アメリカも国連もあるかいと。自分の家族を守るために死ぬのだという非常にある意味では明解なのか、岡崎氏のような、国連も日本もどうでもいい、アメリカにくっついているのがいちばんいい。アメリカにはい、はいとついていくのが日本の国益にいちばんかなうのだと言っているのもあるのです。それから山口二郎氏のような護憲、護憲といっても流されてしまうから、何とかここを歯止めるために、護憲的改憲にしようかなどというのまでいろいろ分かれてくるのです。そういう改憲論の諸相がこのときに明確になってきた。
今日、アメリカが「憲法を改正しろ」と要求、経済界、政党も改憲容認派が広範に形成
 現在はそれを一歩越えて、新ガイドライン以降というところに変えたものになってくるわけですが、今日の状況はやはり随分違います。ここに書いてある通りですが、アメリカが憲法を改正しろと言っているのです。それまでアメリカが後ろから憲法改正しろなどと言ってないです。自衛隊つくれとは言ったけれども。憲法そのものを変えろと言っているわけです。そしてそれに乗る形で経済界がまず名乗りを上げるわけです。憲法改正にいけと自民党のしりをたたく形になるわけです。そして、それまではまず自民党だけが改憲をぶっていたわけですが、加憲という言葉かもしれませんが公明党が一部乗るわけです。そして乗り遅れてはならじというのかもしれませんが、民主党も、つまり野党第一党も論憲あるいは創憲という形で改正論をぶつ人たちがたくさん増えるわけです。この間も鳩山由紀夫さんの憲法改正私案が出ました。私も読みましたが、なかなかおもしろと言えばおもしろい。それから民主党の中の旧民社グループというのか、創憲会議というのですか、そこが憲法改正私案を出しているのです。これはなかなかのものです。自民党よりも見にいっているかもしれないというぐらい元気です。
 政党の中もいろいろ分かれていますが、そういう改憲容認派とでも言いましょうか、そういうものが非常に広範に形成されていて、そしてそこで語られている憲法改正の中身も、かつてのように天皇元首化して9条を改正すればいいやという話ではなくて文明論的な、日本の国家のあり方というものをこの21世紀に向けて問い直そうというような全面的な思想闘争というのか、自分の哲学の表明的な全面的広がりを見せているということが言えるでしょう。そして様々な人が様々な形で憲法改正私案を展開していますから、ここでいちいちあげることは困難だといえるでしょう。たぶんこれから1項目ずつについて、やはり一つ一つ議論していく必要があるのでしょう。
改憲私案で自民党、中曽根、鳩山、小沢、創憲会議等は天皇元首化を主張
 例えば1条から始まれば、天皇を元首化するのだというは、ほとんどの私案がいうわけです。民主党はいっていませんが、鳩山さんはいっています。小沢さんもいってますし、創憲会議もいっているし、自民党もいっているし、それから世界平和研究所の中曽根氏もいっているし、みんな天皇元首化だというけれども、元首化したら何か変わるのというとよくわかりませんが、「元首化」という流行言葉のようになっていますが、憲法の前文も変えてしまおうというのと、変える必要はないというのと、公明党などは分かれてしまっているわけです。公明党の議員の中では変える必要などないというのと変えた方がいいというのとはっきり分かれてしまっているわけです。中曽根さんの変えるべきだなどというのを見て、翻訳調で格調低いし、意味不明だから日本人らしい全文にしなければいけないなどとずいぶん元気に言っているから、どんなすばらしいものができたかと思って読んでみたら、太平洋の波高き美しき日本だなどと書いてあるわけです。何だかよくわからないです。もっとわからなくなっちゃったという、どう格調高いのか全然わかりませんけれども。何なのだろう、文学的にもあまりいい文章とも思えないし、何だかよくわからいのですが、そういうことをみんなで言っていますので、これを一つ一つ見ていくとみんな四分五裂、賛成や反対がグシャグシャに分かれてくるだろうということが考えられます。
 ただ、大方のところ憲法裁判所をつくろう、そして国民投票制を導入しよう、憲法改正の手続を緩和しようというふうなあたりでは、大方共通性が見られるかなと思います。
今の憲法が完全だと思ってはいない 弁護士出身の議員は人権保障を強調
 私は、わざとらしく「おれだって改憲派だ」と言っているぐらいなのですが、今の憲法で完全だと思っていません。これは変えた方がいいところがあると私は思っているのです。9条は私、護憲派です。けれども護憲派だ、改憲派だと言っても一つ一つ丸ごと改憲、丸ごと改憲とか、そういう人はめったにいないわけで、一つ一つで護憲派と改憲派に分かれてくるのだと思うのですが、そういう立場から民主党の中間報告を見ると、なかなかおもしろいのです。賛成の部分もあるし反対の部分もあります。9条の部分はそういう意味で私は反対なのですが、次回、仙石さんがいらっしゃるという話を聞いていたら、何か違っていらっしゃらなくて、最上先生も来るという話ですけれども、仙石さんたちが中心になって、古くは江田五月氏などが言っていたような民主党の改憲論というのを見ると、なかなか私は興味深いものを感じます。彼らみんな弁護士です。それで非常に自分たちの仕事を通じた、怒りだとか無力感だとかそういうものが色濃く出ていると思います。例えば弁護活動などを通じて人権の保障を実現しようと思うと、裁判官が言うことを聞かないし、さっき言ったように憲法の空洞化が進んでいるから、これを何とか阻止して人権保障の実案を上げようというような気持ちが非常に色濃く出ているのです。オンブズマンをつくろうとかいろいろなことを言っています。私は、そういう部分には大変共感を覚えるのです。しかしなぜ9条になると改憲になってしまうのかよくわかりません。だからそこら辺で分かれてくるのでしょう。
 そういうことを一つ一つ言い出していったら切りがなくて、そういう討論会でもあればまた私なりの意見も言わせていただきたいと思います。
経済界・日経連が何を考えているか、知ってもらいたい
 今日は最初に申し上げたように、そういう全体の背後にある日本の支配層とでもいいましょうか、とりわけ経済界が何を考えているかという、8ページの日経連のものを一度ぜひ知ってもらいと思っているのです。
ー昨年夏の安保防衛懇の答申は経済界の主張を丸のみー
 去年の夏ごろ、安保防衛懇が答申を出しました。それ合わせて中期防衛計画をつくり直したわけです。ここで言っていることは経済界の言っていることを丸のみに書くわけです。つまりグルなわけです。防衛懇が何を言ったかというと、中国と北朝鮮を名指しして危険があると言っているわけです。そして現在はもう東西冷戦構造が崩れたから、かつてのような直接侵略のような全面戦争の危険はもうないと言っているのです。これからの危険というものは、例えば非国家的な、つまりそういう団体のやるテロ、ミサイル攻撃、そういったものなのだと言っているのです。それに対して国際的にと言っているのは、アメリカと協調してということですが、対抗しなければいけない。それで、そのために自衛隊を改憲するわけです。だから戦車を減らすわけです。そして情報機関を自衛隊、警察、消防署、海上保安庁、それを統合して、その国家の防衛、安全のために一緒に動かそうとする。その背後に企業、地域、市民というものを組織しようということをずっと言っているのです。非核三原則をやめてしまおうと言っているのです。それを受けて中期防衛計画を改編するわけですか、全く同じことを書くわけです。
ー中期防衛計画を暮れに改編し、日経連が憲法改正案を来年1月に出すー
 そういう流れの中にあって、夏場から秋口にかけてそういう答申を出し、暮れに閣議決定をし、年を越して1月になって日経連がこの憲法の改正案を出すわけです。これを見てて同じことを言っているわけです。まず危険を強調するのです。危険を強調するといっても、もう戦争はないと言っているのだけれども。だけど危険は多様化した。危険だ危険だと言っているわけです。危険なものだから、安心安全な国家づくりをしようというのが、まずその出発点です。
 安心安全のためには一体何をなすべきかというと、さっき言ったように警察だとか軍事力の強化という話になるのです。そしてまた国際的にアメリカとの協調ということになるのです。あとは本当に自分たちの安心になるわけです。どうも日本はコストが高いからコスト高の構造をやめようとか、それから人材育成もエリート教育をして国際競争に勝てるような一部の人間を教育すれば足りるので、平準の教育はやめてしまえと言っているのです。全部書いていたので抜粋しておきましたので、後から読んでいただきたいと思います。これものすごいことです。私はこれを見て頭にきました。
ー日経連の考え方は、自由放任主義的な国家観、夜警国家論ー
 この考え方というのは、一番最初に申し上げたように、いわゆる夜警国家論といいますか、レッセフェール、レッセパーセというか、自由放任主義的な国家観です。つまり国というのは、余計なことはするなと。泥棒を取り締まっていればいいのだというわけです。だったら警察と軍隊さえ持っていれば十分で、あと余計なことはしない。余計なことすると金がかかるからということを言っているのです。あとはもう市場経済に任せて、競争原理に任せて、アダムスミスに言わせれば、神の見えざる手によって世の中はよくなる。だけれども、ならなかったわけでしょう。
 そうやってやった結果、19世紀の中頃はもう惨たんたる社会なのです。イギリスにしてもフランスにしても。フランスの1850年代の統計というのは、平均労働時間が16時間とか、それだけ働きずくめに働いてパンを1本買えるかというぐらいなのです。みんな餓死するしかないではないですか。だから戦争のないときの平均寿命が満20年です。そして労働組合は法律によって禁止です。例えばシカゴで8時間労働法制を求めてゼネストをしたら騎馬隊で散らされて何人も死んでいるのです。それでストライキの首謀者は起訴されて判決で死刑です。そういう社会の中から今日のような社会ができてくるわけではないですか。
 だから様々な、例えば修正資本主義とか人道的社会主義とか社会民主主義とか、あるいはマルクス主義とか、そういう横暴な資本主義というものを、自由放任的なものをやめて、資本的に傾いでいるものから共産主義に傾いでいるものまでいろいろなバラエティーがあるかもしれませんが、そんな自由放任のような国家を信奉している人などいないわけです。もやはそんな国家もないわけではないですか。
 かのアメリカにしたって、社会保障の国家予算に占める比率は日本より高いわけではないですか。日本はいかにも福祉国家みたいな顔をしているけれども、アメリカよりも弱者切り捨ての国家ではないですか。そういう中にあって、経団連はよくもまあこういうことを言うと思うのです。そういう社会にしようと言っているわけだ。「こういうことでいいのか」ということをわれわれは考える必要がある。彼らが背後にあって、例えば防衛懇で自衛隊のやり方を動かし、憲法改正の動きをリードしている。こういうふうに見た方がたぶんいいのではないかと私は思うのです。
ー経団連は金で政治家を買い、全部動かしていると豪語ー
 冗談半分に言えば、中曽根康弘氏の平和研究所の憲法改正案などは、かわいらしさを感じるくらいです。この経団連の方が、何というのか、凶暴さというのか、よくもまあこの傲慢で凶暴なことを国民に向かって書くものだと思うくらいです。政治家もよく怒らないなと思うのですが、ここに書いていますが、企業の政治献金は憲法違反だという議論があって、外国でもできるだけやめようと言っているときに、これを拡充しようと言っているわけです。そして現に、既に政策評価制度を盛り込んで、各政党、各政治家の点数をつける。点数の高いところに政治献金をやろうというわけでしょう。そういう制度をつくろうとこれにも書いているのです。つまり政治家を自分たちが動かして買うのだと言っているのです。だからもはや産学官とかトライアングルとかというより、自分たちが上に立って、政治家も何も全部自分たちが動かしているのだという意識が、今やあるのではないのかというくらいです。何れもここの親分は奥田さんです。防衛懇でやっているのはトヨタの社長です。どうもトヨタ系の人たちが非常に多いわけです。いろいろなところに出ている。だから1兆円もの利益を上げると、何か長い間そうなると、それだけの自信というか、日本を動かしているのはおれたちなのだという意識があるのかもしれません。
ートヨタは「絶望工場」という厳しい指摘ー
 トヨタというのはどういう会社かよくわかりませんが、ジャーナリストの鎌田さんが書いているように「絶望工場」と言われたわけでしょう。そういう社会に日本全体をしていいのかと。そういうふうに少しずつ少しずつ人権が値切られてきたのではないかと。逆にそういう総決算を憲法的レベルにしようとしているというのが現在の状況ではないのかしらということを感じさせる文章で、確かにその憲法第9条というものは大変大きな争点であることは間違いはないけれども、それだけにとどまらない、日本社会のあり方、あるいは国家そのものに対する基本的考え方というのがもう一回問われる、あるいは問われざるを得ない時期にきているのかもしれない。逆に言うと反省するいい機会なのかもしれないと思って、本来であれば自民党とか民主党とかいろいろなところの憲法の改正案についてお話しすべきところだったのかもしれませんが、むしろその背後にある、私の目から見ると最も恐ろしいとでもいいましょうか、そういう考え方というものをお示しして、一応私の考え方を終わらせていただきたいと思います。どうもご静聴ありがとうございました。
 
−  質 疑 応 答 −
 
JPU 木村>
 最後に先生は、日本経団連が我が国の経済問題を考えるということで、自分の考え方をお示しになったのですが、今現在は確かにそういうふうな状況かと思うのですが、経団連だけが言うことによって今の状況がつくられているわけではないと思うのです。一番大きいのは、それに反対する人たちがほとんど、いることはいるのだけれども、特に私も組合に所属しておりますが、連合の笹森委員長などは、ここに書いてあるように9条の第2項は変えるべきだと言っているのです。そうすると、そういうふうなことを考えてみれば、経団連と一緒になってこの新たな日本の国をつくろうというような方向に進ませようとしているのではないか、そういう問題が今日一番問題ではないかというふうに思うのです。その辺についてどのように考えるべきかということについて、お聞きしたいと思います。
 
<結城>
 笹森氏が何を考えているかというのは私はよくわかりませんが、つまり9条を改正しようという考えだから経団連と同じだろうと私は思わないのです。つまりすべてを9条問題に結びつけるという考え方を私はとらないのです。逆に9条を守っていこうという人だって、こういう社会状況に対してどういう態度をとっているのか問われることがあり得ると思っているです。だから経団連だけが今の日本社会をつくっているとはもちろん思いません。様々な要素が絡んでこの経団連の傲慢さというか、それを支えていると思うのですが、反対派の問題を今指摘されたと思うのですが、私は笹森さんがどうだとか、何とかの議員が何とかだとかというよりも、それよりもまず自分、我々自信というものが自分たちの立脚点をもう一度確認してみるということの方が大切とか、そこからやり直さないとこの状況は変わらないのではないかと私は思っているのです。これからは政治の季節になっていくのかもしれませんが、政治になる季節というのは、つまり数が決するということになってくるのだろうと思うのですが、私は基本的に、できるだけ共通の目的で手を組めるところと組んだ方がいい。しかし、自分の考え方は明確に確立しておく必要がある。そして、それぞれの考え方に違いがあることは当然だと思っているのです。その違いがいったいどのくらい違ったときに、自分にとって許容範囲になるかということは、人によって違うでしょうが、できるだけわれわれは自分の考えを明確に確立して、原則を譲らないで、その範囲内でできるだけ違う人と共通の場面で手を結ぶ。そういうふうにしていかないと、こういう状況はたぶん打破できないのではないかなと思っています。
 あまりお答えにならないかもしれませんが、笹森さんという人の考え方について、実は存じ上げませんので、それについて明解なコメントする能力がございませんので、今のような回答になります。申しわけございません。
 
<JPU 佐藤>
 いま先生は、自分のそれぞれがきちっと考えを持ってやるべきだというをおっしゃられたのですが、それが基本だと私も思います。私たちの職場ということを考えると、もちろん郵政公社ですから民営化という話と関わりがあるような気がするのですが、やっぱり職場の状況などを見ると、上で決めてきたらこれはもうどうしようもないというふうに現場の働いている労働者、あるいはアルバイトの人とかいろな人がいるわけですが、管理者も含めてやむを得ないとなっているのが現状なのです。もちろん自分の意見は、個々バラバラに持っているわけです。しかし全部押しつぶされているのです。
 先生のおっしゃっているような形で、この閉塞状況を打開できるような状況では、はっきり言ってないと言わざるを得ないと思うのです。なぜそうなっているか、私たちは「赤字だ、赤字だ」と言われて、毎日営業をやりなさい、配達は間違えたらいけませんよと。配達をしていたら、1階に集合箱があるのですが、102と103号を間違えたら、それだけで電話が来てしまうのです。そして職場で怒られるわけです。自殺も出ているわけです。ノイローゼの人もいるわけです。そういう状況の中で、ものを言えない労働者にはっきり言ってならされているわけです。
 先ほどトヨタの中の問題を鎌田さんが書いたとおっしゃいましたが、これが今の現場の状況になっていると、いろいろな職場で聞いた状況中では恐らく学校の先生もそうだし、自治体の労働者の皆さんもこれまで決められたことをやっていたけれど、それはもう許されないという形になっていると。そうなっていくと、やはりそこで働いている者たちは、やはり労働組合に何とかしてほしいと考えて言った場合に、そういうふうにやっていて、とりわけ今回連合の皆さんが主催しているわけですが、私も連合に加盟している労働者ですが、そこの頂点に立つ人がそういうような発言をしてしまえばどうなるかということだと思うのです。その部分を考えないで、先生は簡単におっしゃっているわけではないと思いますが、先生がそういう見解を申されてしまうと、やっぱりおれたちは何もできないなと。結城先生というりっぱな先生がそうやっておっしゃってしまったら、残念だなと私は思ったのです。結城先生はいいことを言ってくれると思っているのですが、だけれども、そこはそういうことを跳ね返していくために、私たちは現場の中でみんなで話し合ってやってきていますが、そういうものを打開していくような状況をどうやってつくり出すかという意味においては、そういう問題性もあるのではないかと思い、その上で改めて聞きしますが、先ほどちょっとおっしゃらなかったのですが、憲法改正する意図というものが何なのかと、改めて何か積極的な意思が全体的に国家的レベルにまで高まっているような気がするわけです。私がとりわけ一番思っているのは、竹島問題であり、それから尖閣諸島の問題があったりして、はやり何らかの形で日本が海外に武力行使をできるような状態をきちっとつくっていかなければ、今の日本は危ないと。
 もう一つは、今日的な不況下において、日本の経済状況が破綻していると。それを武力で保っていこうとするのがあるのではないかと思っているのです。そのために私たちがほとんど黙らされている状況、何も言えないようににさせられて、それを最大限活用して武力行使を簡単に戦前のようにやっていこうというのが、はっきりしているのではないかと私は思っていますが、先生の考え方をお聞かせ願いたいと思います。
 
<結城氏>
 まず先の方ですが、組合の中で大変だからどうすればいいのだと言われても、私には何とも答えようがないわけでして、例えばその置かれている状況の中で、人はそれぞれ違うのだと思うのですが、学校も同じだろうとおっしゃいましたが、同じなのです。法人化されて全部評価制度の導入ではない。われわれが反対してきたけれども、国大教の親分クラスは反対しないのです。もうすでに反対しないように何年も前から利益を誘導させてしまっているのです。それから下手に反対すると、これからいじめられるだろうと思うわけだから、反対にできなくなってしまっているわけです。それが一人の教官というか先生にしても、似たようなものはあるわけです。だけど反対している人間というのは、例えばうちの大学で言えば半分以上が反対したわけです。全国的にいうと声を上げた人は圧倒的に少ないでしょう。だけれども、それを例えば私がここで皆さんに、この大学をどうしたらもとに戻せるのでしょうと聞いても、それは回答得られないと思うわけです。これは自分がやっていくしかしようがない。大学問題は大学の人間が。訴えることはします。新聞広告を出したり、無駄な努力もしたのです。そういうことやっていくしかないではないですか。だからそういう意味で、結局自分に振り返ってくるというか、一人一人やるしかないのかなと。まして郵政公社の問題を私が答えられる立場でもないと、こういう回答なのです。連合のトップがどうだとか、あるいは何とか組合の何々委員長についてどう思うか言われても、私の答える範囲外だとなと、そういう形の返事。どうにでもなれと、そういう意味ではありません。
 後の方の問題ですが、それについて私の考え方はここにある程度書いているつもりなのです。やっぱり少子化や不況やそういう問題の中で、何とか企業が利潤を維持していこうと努める。これは企業としては当然かもしれないけれども。世界的に見れば貿易ルートを確立して、東アジアでのヘゲモニーを握ろうと。経団連はそういう考え方でそのための軍事力、戦争をしようというよりもアメリカとくっついて、自分たちの生命線を守って、とりわけ中国をターゲットにした戦略を展開しようとしているのだと私は思います。そうこうしているうちに国内での不満も高まるだろうから、これを鎮圧するための警察力の強化を正面切ってうたっているわけです。そういうものが背景にあるのだろうと思います。だから、戦前のような天皇中心の軍国主義のようにしようとは、もちろん思ってはいないと思うけれども、私はある一定の年齢の方とは違うのだと思うのですが、よく市民運動などをやっていると天皇制、天皇制と言う人が多いわけです。だけど私は天皇制が矛盾の根元だと思ってないのです。なぜかというと、マルクスがああいう考え方を展開し、ヴィクトル・ユゴーがレ・ミゼレブルを書いたような19世紀の社会というのは、もう惨憺たる状況の社会ですが、これ共和制なのです。フランスは君主制ではないのです。だから共和制になったからといって必ずしも社会はよくならない。だからわれわれの不幸の源泉は、何も唯一君主にあるわけではない。日本では天皇にあるわけではない。それは一つの矛盾の要素かもしれなけれども、もっとわれわれの不幸を満たす源泉というのは幅広く存在するのであって、一つは、例えばこういう傲慢な経営者の論理、経営者全部が悪いとは全然思っていません。だけれども、こういうことを臆面もなく語って、あたかも国民を自分たちの金もうけの資源のような扱い方をするような人々、これがまた一つの不幸の源泉であるとは思っていますので、だからそういう社会に戻ろうというか、転換するということは、すなわち戦前の軍国主義に戻るとしているとまでは私は思わないのです。だけれども、戦前に戻ろうが戻るまいがどうでもいいので、少なくともわれわれが不幸になるであろうというだけは感じるので、そこはやっぱりしっかり押さえておく必要があるのではないかと思っているところです。
 
<JPU>
 一言、わからないことがあるのでお聞きしたいのですが、4月にも憲法改正のための手続というか、国民投票法、国会法ですか、その改正案が出されるのではないかと。新聞をよく読んでいなかったのですが、週刊誌や何かで、その改正案によってマスコミで憲法改正問題を報道するとか、それに対して非常に規制が行われるのではないかと。
 それと、私はまだ公務員ですが、公務員の選挙運動とかで一応いろいろ制限がつけられているのですが、その改正法案では今まで以上にどうもきつくなると。実質的にはできなくなるのではないかと。そうすると知らない間に憲法改正がされてしまうのではないかと。そういうようなことが書かれていたのですが、民主党などがその改正手続については賛成しているという報道があるのですが、その辺の問題点などについて先生のわかる限り教えてもらえないかと思いまして。
 
<結城>
 大変広範な問題がありまして、日弁連と、ここで言えば北海道の札幌弁護士会が国民投票法に対しての膨大な、長文の疑問点の文書をつくっています。私がここで口で言うより弁護士事務所に行って、誰でもいいからそこからお宅でつくった文書を見せてもらえませんかと言って、コピーでもさせてもらった方が早いと思うけれど、基本的には選挙の規制と同じ規制をしようとしているのです。ですから公務員の選挙活動は禁止されていますから、一般的に公務員はだめです。それから私はもう公務員でもないのですが、学校教育法の適用を受ける教員に対する制限というのがあるのです。それがかんできますから、ある憲法を通す目的、あるいは通さざる目的でそういう活動をしてはいけないような規制が生きてくるのです。そういういろいろなものができて、それから選挙よりもマスコミに対する規制は強いのです。例えば模擬投票するなとか、世論調査でどっちが多いとか言うなとか、あるいはどっちかに加担するなとか、そういうことをずっと書いているのです。だからそれの運用の仕方によっては、マスコミは沈黙せざるを得ないと。これは運用の仕方の問題になってくるのかもしれませんが、そういう様々な点に対して日弁連は、細かく疑問を提起しているところです。それから投票の方式については明記していませんから、例えば投票させる場合には、私などはそうなのですが、一条一条に問えと。全部どんぶりで飛ばないで、いい改選も悪い改選も全部ごった煮にして賛成か反対かと問わないで、問うならある一条一条について問うべきなどと私は思っています。そういうことも含めて様々な問題点を列挙して検討しています。大変大きな問題をはらんでいると思います。
 そういう細かな議論を民主党と自民党と公明党の全体的レベルで話ししているとは到底思えません。たぶんその窓口の人間みたいなのがやっているだけではないですか。ほとんど問題点の指摘なくしゃんしゃんという形になるのではないかという気がします。だから民主党のほとんどの人が問題ないと思っているのではなくて、そこにあてがわれている人間が、そっちに傾いでる人だという可能性が極めて強いのではないかという気がしますが、具体的に誰がかんでいるかよくわかりませんので、これだとあまりにも無責任なことを言って、いいかげんなことを言うなと怒られると悪いので、そうしたらあまり民主党などを問題にしたという話は聞かないところです。むしろそういうところに非常に大きな問題を感じるのですが、せっかくだから民主党の関係者がおられる中で言わせてもらうと、国民保護法を通しているでしょう。国民保護法関連7法案を民主党は通したのです。これは大変なことだと思います。ちゃんと考えたのかいと私は思います。普通の刑事的手続を問うことなく、自衛官が勝手に人を逮捕できるのです。米軍がわれわれの家を接収できるわけです。幹線を臨検して捕まえてきたのが妥当かどうかの裁判をするのは自衛隊です。そのような法律をほとんど議論もなく民主党は通して、そういうものに対して反対してきたはずの本道の議員さんも、衆議院は少なくとも賛成して立ったわけです。参議院は欠席したのです。自民党も欠席しました。だから参議院議員は立派なものだなと思います。自民党も公明党も民主党もみんな理屈こねて欠席したわけです。だけれども衆議院は民主党の人間は賛成して立った。だから無関心ではなかったはずの議員さんも立っているくらいですから、国民投票法の問題点を何か正面切って議論しようとしているのかなという、もうそういうレベルではないという気がするくらいの現状であるということは、われわれはもう一回確認してみる必要があると思うのです。これは憲法改正の話ではないです。これからどころではないです。もうできているのだから。発動しようと思えば、もうつくられてしまっているわけです。今日も国民保護法に合わせた計画のようなものをつくって、全部地方に丸投げです。そういうふうになってくるわけでしょう。こういう社会にもうなっているということを何度も思い起こしてみる必要があるのではないですか。憲法を守るというのなら、この状況をもう一回戻さないと憲法守ったことにならないのではないかという気がしているくらいです。