<労働判例研究> −06.12−
豊國工業事件・奈良地裁判決平成18.9.5(判例集未登載)

北海道大学労働判例研究会 山田 哲(北大社会法研究会)

<事件の概要>
 本件は、事業主が社会保険の被保険者資格取得を届け出る義務を怠ったため被用者保険に加入できなかった元労働者が、従前労働していた会社を相手取って損害賠償を請求した事案である。
 昭和19年11月生まれである原告Xは被告Y社に平成10年9月17日に就職し、平成16年11月30日まで勤務し退職した。Y社は健康保険法および厚生年金保険法の「適用事業所」に該当するにもかかわらず、XについてはY社で勤務した期間のうち、平成14年9月分までについて健康保険、厚生年金への加入手続がされておらず、平成14年10月以降の分については、平成16年10月に過去2年分について遡及して加入する手続がされた。その際、Xは被保険者本人が負担すべき自己負担部分のうち47万余を支払っている。
 このため、Y社がXについて被保険者としての資格を取得したことを各保険者に届け出る義務を負っている(健康保険法48条、厚生年金保険法27条、128条)にもかかわらず、その義務を怠ったことは労働契約上の義務の不履行に該当するとともに、Xに対する不法行為に該当するとして、XがY社に対し損害賠償請求を請求した。


<裁判所の判断>
 裁判所は、「法が事業主に対して被保険者の資格取得について各保険者に対する届出を義務づけたのは、これら保険制度への強制加入の原則を実施するためであると解されるところ、法がこのような強制加入の原則を採用したのは、これら保険制度の財政基盤を強化することが主たる目的であると解されるが、それのみに止まらず、当該事業所で使用される特定の労働者に対して保険給付を受ける権利を具体的に保障する目的をも有するものと解すべきであり、また、使用者たる事業主が被保険者資格を取得した個別の労働者に関してその届出をすることは、雇用契約を締結する労働者においても期待するのが通常であり、その期待は合理的なものというべきである。これらの事情からすれば、事業主が法の要求する前記の届けを怠ることは、被保険者資格を取得した当該労働者の法益をも直接に侵害する違法なものであり、労働契約上の債務不履行をも構成するものと解すべきである」として、損害賠償請求を認容した。
 損害額は、被用者保険に加入していれば支払を免れたはずの国民年金・国民健康保険の保険料(合計308万円余)と、厚生年金に加入していれば給付を受けられた額(333万円余)から、厚生年金等へ加入していたならば支払を要したはずの保険料自己負担分(合計254万円余)を控除した額である。


<検討>

 被用者保険に加入することは、労働者にとって大きなメリットである。すなわち、保険料を労使で折半するため、国民健康保険や国民年金に比べ保険料負担が軽くなる。また給付面でも、基礎年金に加えて報酬比例の老齢厚生年金が上積みされる。一方、会社にとっては社会保険料の事業主負担分は、とりわけ経営状態が厳しい時などには重くのしかかることは想像に難くない。もっとも、負担が重いからといって、事業主が労働者の被保険者資格取得の届出をしなかったり、虚偽の届出をすることには罰則が付されている(厚生年金保険法102条1項1号、健康保険法208条1号)。
 こうした行政上の取り締まりとは別に、事業主が労働者の被保険者資格取得の届出を怠った場合には「労働契約上の債務不履行」を構成すると判断した点が、本判決の最大の意義である。そして、当該義務の懈怠を理由として、損害賠償請求が認容された。また、本判決の判断枠組みによると、事業主が虚偽の届出をした場合にも同様に「労働契約上の債務不履行」を構成することになると考えられる。
 ただし、留意すべき点もある。本件においては原告は既に年金を受給しており、損害額(=受けられたはずの年金額)の算定は比較的容易であった。未だ年金支給裁定を受けていない労働者については、損害発生の有無および損害額の算定という難問が残されており、裁判所が損害賠償請求を認めなかったケースもある(大真実業事件・大阪地裁判決平成18.1.26労判912号51頁)。


※ この判例研究は北大の道幸研究室の協力により、毎月1回掲載されます。