伝説の通訳
「パク・ジュンギュ」のロシア情報

永らく、私たち連合北海道のために、日ロの架け橋としてご活躍いただいた「パク・ジュンギュ」さんが、1月18日午前7時8分、永眠されました。
ここに、連合北海道より心からの哀悼を捧げます。
なお、この情報は、遺志を継ぐ人々によって更新されます。


サハリンのいろいろ  (2003.6)

ユジノに都市計画

2003年6月11日の「チア・オストロワ」情報通信、アレクサンドラ・キム氏

 サハリン州行政機関事務局のアレクサンドル・ブリキン局長によると、ファルフトジノフ知事は、ユジノサハリンスクの都市計画建設を作ることについての拡大会議を行った。ユジノサハリンスク市の建物の建設は、無秩序となり、建築発達の現代レベルと州中心都市の状態に適切ではない、と州政府や市民代表者が発言した。
 その問題を解決するためには、州行政機関の招待により、ユジノサハリンスクにサンクトペテルブルグの建築家が着任する予定である。
 その目的は、サハリンの建築家とともに、ユジノサハリンスク市の新しい総合計画を作ることである。

BP(英国石油)がサハリン大陸棚の特集広報

2003年6月11日の「チア・オストロワ」情報通信、エレナ・トレチャコワ氏

 「BP・サハリン」の副社長のユリヤ・ヤキモワ副主任によると、2003年1号の「The BP Magazine」は、サハリン大陸棚、州の経済・社会・文化の特集である。「BP」の指導部は、サハリン大陸棚石油・ガスプロジェクトを将来性あるものと認め、サハリン特集号を発行する決定をした。
 「The BP Magazine」は、一年に数回発行で、全世界の大企業主や、国々の政府や、社会組織などに配布される「BP」の有名な雑誌である。
 去年の秋に、特集論文の資料と写真を集めたロビン・ナイト氏とドジョン・スタッロク氏は、有名な英国の記者・報道カメラマンであり、わざわざ「BP」の指導部に招待された。ロビン・ナイト氏とドジョン・スタッロク氏は、サハリンの北部以外に、いろいろな所で資料を集めた。
「我々は、写真に撮影されたみなさんには、雑誌を一部ずつ贈った」とユリヤ・ヤキモワ副主任が述べた。

融資減少で植林がピンチ!

2003年6月4日の「チア・オストロワ」情報通信、ポロナイスク市、ユリヤ・クルピアンスカヤ氏

「ポロナイスキー林野庁」のコンスタンチン・シュルブラ長によると、6月の末までには、トルドヴォエ村とソボリノエ村の近くで、26万本のエゾマツを植え付ける予定である。融資の減少で、今年、植林地は65ヘクタール(去年は、180ヘクタール)となる。

秋の収穫を目指して、植え付け終わる

2003年6月5日の「チア・オストロワ」情報通信、トマリ市、アレクサンドル・チャン氏

「トマリンスキー農業企業」は、55ヘクタールの農地でジャガイモを植え付けることに成功した。ジャガイモのほかに、4ヘクタールずつの農地で、ニンジンとアカカブを植え付けた。もうすぐ、「トマリンスキー」は、400頭の大形有角獣の夏用の搾乳場の準備ができる予定である。

サハリンの建設事情

2003年6月4日の「チア・オストロワ」情報通信

 2002年に、サハリン州では、請け負い仕事の総額は84億ルーブルで、そのなかで、サハリン企業の請け負い仕事の額分は77億9,300万ルーブルとなった。サハリン州の建設局のニコライ・クルタ局長によると、サハリン企業の請け負い仕事の65〜70%は、「サハリンー1」と「サハリンー2」プロジェクトに関する仕事であった。大陸棚プロジェクトに関する仕事の大部分は、ノグリキ地方、オハ地方、ポロナイスク地方、トゥイモフスキー地方、スミルニフ地方、ドリンスク地方で行われた自動車道路インフラ建設や、大建設の建設場の準備などである。
 比較してみると、2000年には、州で行われた請け負い仕事の総額は46億9,400万ルーブルで、2001年には、61億9,900万ルーブルであった。2003年に、216億ルーブル、2004年に、283億ルーブル、2005年に、394億ルーブルに達する見込みである。大陸棚プロジェクトに関する仕事は、65〜70%、州の生活用建設は、30%予定である。
 現在、サハリン州の建設分野では、1,120の企業と1万3,000人の建築家が働く。そのなかには、6,500人の建築家は州のいくつかの「サハリンモルネフテモンタジ」、「トランスストロイ」、「スー4」、「グレナダ・イ・エフ・エス・カ」、「スフェラ」などの大企業に勤めている。州の建設局のニコライ・クルタ局長によると、建設分野の問題のひとつは、専門建築家の不足である。

漁業の始まり

2003年6月6日の「チア・オストロワ」情報通信

 2003年8月に、サハリン州の漁業は125周年を迎える。1878年に、ロシアの商人であるヤコヴ・セミョノフは、コンブを採取するために、真岡市(ホルムスク)の近くにいくつかの漁場を無料で貸借りした。8年後、ヤコヴ・セミョノフ商人は、加えて21のを貸借りして、1886年には、9万プードのコンブと5万プードの魚を採取できた。(プードというのは、ロシアの古い重量単位である。1プード= 16.38キロ)。そのとき、ヤコヴ・セミョノフ商人は、コンブの採取・保存とその料理の作り方の専門家として有名となった。
 1898年には、コンブと魚の採取量は、5万プードと45万プードとなり、日本へのニシンのフィッシュミールの輸出量は12万プードとなった。魚の採取と商業のほかに、セミョノフ商人はサハリンの漁業に関する研究をした。1885年に、ウラジオストクでセミョノフ商人の「日本海でのコンブ採取」という本が出版された。