計り知れぬ米同時多発テロの衝撃
──唯一超大国幻想の崩壊
 
 『ニューヨーク・タイムズ』13日付社説は「11日の一瞬の出来事は歴史の分岐点となった」と書いた。何と何の分岐点であるかについては、いろいろな物差しの当て方がありうるが、米国人にほぼ共通する捉え方は、この日を境に「戦争の概念」が一変したということだろう。同紙は「従来型の軍事力では阻止できない脅威に対して、開かれた民主社会がいかにして自分を守ることが出来るか」がこれからの課題だと指摘した。
 
 ウェストファーレン条約以来、戦争はまずもって「主権国家間の国際法に則った武力行使による闘争」であり、それ以外には、1つの主権国家の内部で2つ以上の集団が覇を求めて殺し合う内戦しかなかった。しかし、そのような国家間戦争の3世紀半は今回の事件で明示的に終わって、これからは、核兵器もミサイルも持つわけではない、ただ剃刀の刃をポケットに忍ばせただけの数人のNGO(!?)メンバーでも、世界中の任意の場所をいつでも大量殺戮のための地獄の戦場と化すことが出来るような、見えない敵との際限のない戦争の時代が始まる。ラムズフェルド米国務長官は12日の会見で「これが21世紀の戦争の姿だ」と言い、『NYタイムズ』翌13日付はこの事件を 「第3次世界大戦の最初の一撃」と規定し、しかし通常兵器による攻撃は今回限りで、第2撃以降は生物・化学兵器かスーツケース核爆弾のようなものが使われて、遙かに悲惨な事態が引き起こされるかもしれないという深刻な不安を示唆した。
 
●反グローバリズム
 
 こういう米国人の事態認識は、間違っているとは言わないが、不正確である。
 
 第1に、この事件の残虐さと重大さを強調するための一種のアジテーションとして 「戦争だ」という言い方をするのは分かるが、しかしこれは、毎年全世界で数千件も起きて万を超える人々の命を奪っているテロの1つであって、いくら手口が残忍で犠牲者の数が多く、また米本土を舞台とした初めてのケースであったからと言って、安易に「戦争」と規定すべきではない。テロは基本的に警察的手段で予防し解決すべきものであって、軍隊が出動して軍事的手段のみを用いてよりよい結果が得られる保証は何もない。少なくとも、長期的な国際警察協力と緊急かつ(対テロ作戦としては)異例の軍事作戦とを区別と統一において捉える視点が必要だろう。
 
 第2に、米国は唯一超大国幻想から脱却しなければならない。
 
 本誌がつとに述べてきたように、冷戦の終わりとは、単にそれだけではなくて、冷戦にせよ熱戦にせよ、国家と国家が重武装して武力で利害と領土を争い合うという、それこそウェストファーレン条約以来の国際関係を支配してきた野蛮な「国民国家」原理の終わりを意味していた。国境に仕切られた「国民経済」を基礎として全国民を統合して国益を追求する近代主権国家=「国民国家」は、19世紀後半までに全欧州を覆い尽くしてきしみを立て始め、それが20世紀に入って2度にわたる世界規模の大量殺戮戦争となって爆発した。最後はヒロシマ・ナガサキの悲劇にまで行き着いて、その熱戦の余りに悲惨な結末に「もう熱戦は止めよう」ということにはなったものの、荒廃した欧州の西と東の辺境に出現した米国と旧ソ連という「国民国家」のお化けは、地球を何十回でも破壊してあり余るほどの核兵器を抱え込みながら、なお武力による国益追求という野蛮原理を捨てることが出来ずに冷戦を演じ続け、ついにその重みに耐えかねて「もう冷戦も止めよう」という合意に至ったのであった。だから冷戦に勝ち負けなどあるはずもなく、米ソは共に、国家間戦争の時代は終わったのだという認識に立って、新しい協調的な国際秩序の原理を模索するのでなければならなかった。
 
 ところが、当時ブッシュ父が率いる米国は、冷戦終結を「米国の勝利」と錯覚し、旧ソ連が崩壊したことによって米国は唯一超大国になったという幻想に取り憑かれた。永年尻に敷かれて頭が上がらなかった妻に先立たれた老人が、「よーし、これで俺の天下だ」と張り切ってみたところで、相手がいなくなって家庭も失った寂しい一人暮らしでは天下も何もあったものではない。その独りよがりの幻想を助長したのが湾岸戦争で、確かにサダム・フセインの行いは非道であったけれども、しょせんは石油利権に絡んだ局地的な国境紛争であって、まずはアラブ世界の地域内協議に解決を委ねるべき筋合いの事柄であったにもかかわらず、「ヒトラー以来最悪の独裁者」に対して「正義の味方」米国が全世界を率いて力で叩き潰すという誇大な図式に填め込んで、軍事力・経済力の圧倒的格差からして勝つに決まっている戦争に勝って自己陶酔することになってしまった。
 
 その父親譲りの唯一超大国幻想を外交政策全般の基調にまで拡張したのが、ブッシュ現大統領の「ユニラテラリズム(単独行動主義)」である。京都議定書による温暖化ガス規制からの突然の脱退や「ミサイル防衛構想」の一方的な押しつけをはじめとして、米国が日欧の同盟国との協調を軽視し、第3世界の主張を無視して、自国の利益がすなわちグローバル・スタンダードであるかに振る舞う傾向はますます露骨になっていて、そのことへの反感が7月ジェノヴァ・サミットでは「反グローバリズム」のデモで死者が出る騒動まで呼び起こした。中東でも、イスラエルのシャロン政権による戦闘機や戦車まで持ち出したパレスチナ人への攻撃を黙認し、イラクでは相変わらず米英の戦闘機が「制限空域監視」を名目に毎日のように出撃して気紛れな爆撃で民間人を殺傷することを繰り返し、昨年末に始まったアフガニスタンのタリバン政権に対する経済制裁も一段と強化するなど、アラブ社会全体を敵にするかのような行動をとって反米感情に油を注いでいる。トビー・ドッジ英王立国際問題研究所中東問題担当が言うように「犯行グループは、グローバリゼーションから取り残され、グローバリゼーションそのものによって脅威と危害を受けていると感じている社会の出身者」(13日付読売)なのである。
 
 つまり、世界が抱える問題の所在や性格も、従ってまた起こりうる戦争の様態も、 2001年9月11日に初めて分岐点を迎えたのではなく、すでに10年前に分岐点に達していたにもかかわらず、米国はそのことを正しく認識して適応することが出来ず、それ以前の「力を持つ者が世界を支配する」という原理を捨てきれずに唯我独尊的なグローバリズムに向かって暴走した。その10年分のツケが今になって最も悲劇的な形で回ってきて、米国人も否応なく冷戦終結の意味を思い知ることになった。その意味で、軍事中枢=ペンタゴンと経済シンボル=世界貿易センターの崩壊と共に、本当は何が崩壊したのかと言えば、それは米国の唯一超大国幻想にほかならない。
 
 ところがワシントンは、そのことを認めて胸に手を当ててこの10年間を省みるのでなく、逆に唯一超大国幻想にますますしがみついて、圧倒的な軍事力さえあれば世界のどんな問題でも解決できるかのような態度に走っている。これでは泥沼化しかありえない。
 
●巡る因果
 
 第3に、これが「戦争」だとして、その戦争は今始まったのでなく、とっくの昔に始まっていていて、米国は一貫してその当事者だったことを認識する必要がある。
 
 ウサマ・ビンラーディンが本当に首謀者であったとして、彼とその庇護者であるアフガニスタンのタリバンを育てたのは米国自身であって、その意味では「飼い犬に手を噛まれた」にすぎない──というのが事態の一面である。79年に旧ソ連がアフガニスタンに侵攻した際、米CIAはパキスタン経由でアフガン・ゲリラに豊富な武器と資金を提供してソ連軍に立ち向かわせた。84年にサウジアラビアからパキスタンに入って、たちまち「アラブ義勇軍」の有力リーダーの1人にのし上がったビンラーディンは、当然にもCIAの協力者となって、その後押しで88年には「アル・カイーダ」という軍事組織を結成した。ところが、91年に湾岸戦争が起きて米軍がサウジに進駐したことで、両者の関係は一変した。イスラム原理主義者にとっては米軍のサウジ駐留は「聖地を異教徒に踏みにじられた」ことを意味しており、この時からビンラーディンは反米路線に転じ、NYの世界貿易センター(93年)、サウジ内の米軍施設(95年と96年)、ケニアとタンザニアの米大使館(98年)などの爆弾テロに関わったとされて、米国にとっての最大のお尋ね者となった。
 
 元は手先として使っていた人間がひとかどのテロリストとして歯向かってきたことに、余計に頭に来たのだろう、米国は98年の大使館爆破事件のあとすぐに、スーダンの化学兵器工場(後に単なる薬品工場を誤爆したことが判明)と共にアフガニスタンのビンラーディンの拠点とを空爆した。しかし80発の巡航ミサイルも彼を爆殺することは出来なかった。米国はその後もタリバンにビンラーディンの身柄引き渡しを要求し続け、タリバンが拒否すると、昨年末には国連安保理で強引に決議させてアフガニスタンへの経済制裁措置をとった。このように、米国は80年代早々からすでにしてアフガン紛争の当事者であって、その意味ではこの「戦争」は今始まったのでなく、すでに20年も続いてきて今新しい局面に入ったと捉えるべきなのである。
 
 イラクについても同じことが言える。79年のホメイニ革命で中東最大の親米国イランを失って、しかも米大使館人質事件で面子を失った米国は、イランを押さえるために隣国のイラク=サダム・フセイン政権に多大の軍事・経済援助を注ぎ込み、イランと戦わせるよう仕向けた。そのフセインが歯向かってきたことに激高して湾岸戦争を発動し、彼を抹殺しようとありとあらゆる手段を用いたが失敗し、その腹いせに、同 戦争から10年経った今も米軍と英軍はイラク上空に一方的に設定した「制限空域」監視を名目に毎日のように戦闘機を飛ばして、気紛れな爆撃で多数の民間人を殺傷し続 けている。またイラク国内から反フセインの暴動や反乱が起きることを期待して、反 政府勢力やクルド族ゲリラに支援の武器や物資を送り込んでいる。イラクとの「戦争」もまた20年間続いていて、米国はその当事者である。
 
 パレスチナに関しても、米国は国内の強力なユダヤ・ロビーの圧力を受けてイスラエルに莫大な軍事・経済援助を続けており、その規模は従来、米国の対外援助全体の3割にも上ってきた。イスラエルはその米国製の戦闘機やミサイルを用いてパレスチナ人地区への無差別爆撃や要人暗殺を行っていて、昨年9月からの1年間だけでも、パレスチナ側に600人の死者と1万人を超える負傷者が出ている。武器も資金もないパレスチナ側は、自爆テロで反撃し、客観的にはどちらもどちらと言えるような泥沼状態になっているのだが、パレスチナ側から見れば敵はイスラエルとそれを支える米国であり、その自爆テロがやがて米国に向かうことは必然的とも言えた。ユダヤ系巨大金融機関が多く入居する世界貿易センターが標的とされたのは、「米国はイスラエル支援を止めろ」というメッセージであることに疑いの余地はない。
 
 このように、米国は冷戦時代から今日まで、中東各地で不正規な「戦争」を戦い続け、都合がよければテロリストでも独裁者でも支援して利用し、都合が悪くなれば抹殺しようとするといった汚い作戦に手を染めてきたのであり、それが唯一超大国時代になってますます身勝手さを増して、「嫌いな相手とは対話しない」という態度をあからさまにして、アラブ世界全体から反感と憎悪を招くようになった。上記『NYタイムズ』社説は「人の憎しみはここまで進むのか」と詠嘆したが、なぜそれほどの憎悪が米国に向けられることになったのかをイスラエル建国以来の中東関与の歴史から学ばなければならない。英紙『フィナンシャル・タイムズ』米国版社説は「ブッシュは中東政策を再考慮すべきだ。アメリカ政府がイスラエルのシャロン首相の強引な政策を許容することが、対アメリカ・テロを促進したことは間違いない」と忠告している。
 
●報復──しかし誰にどうやって?
 
 ブッシュ大統領がほとんど反射的に報復への決意を表明したのは、それはそれとして無理からぬことである。米国民はもちろん世界中が驚愕と悲しみを憤激と憎しみに転化させつつある時に、米大統領が動揺したり逡巡したりする姿を見せるわけにはいかない。
 
 しかし、問題はそこから先で、まず第1に、直接実行犯の逮捕・取り調べが始まったか始まらない内に、イスラム過激派の指導者=ウサマ・ビンラーディンが首謀者であることがほとんど断定的に報じられ、そのビンラーディンがアフガニスタンのタリバン政権の保護・管理下にあることを理由に同国への大規模空爆か特殊部隊投入かなどと軍事的報復の戦術が論じられ、その戦術の是非の検討も煮詰まらない内に早くも米空母がインド洋に展開しNATO諸国やロシア、中国、そしてトルコやパキスタンにも軍事作戦への協力要請が飛ぶといった状況は、明らかに拙速である。もちろん、米国の断固たる決意を示してタリバンを震え上がらせ、何もしない内に屈服してビンラーディンを差し出してくるよう仕向けるための言葉の戦争が第1の狙いではあるのだが、反面、激高する米国民の愛国心の高まりに突き上げられて、振り上げた拳を落とさざるを得なくなり、やらなくてもいい戦争をやってしまうということもあり得る。前出のドッジはこう語っている。
 
「今、何よりも懸念されることは、テロ攻撃に対する過剰反応だ。……仮にテロ攻撃に参加した個人が特定されたにしても、彼らが所属する国家全体が犯行に加担したと決めつけるのは早計だ。米国の保守派の政治家たちは、早くも特定の国家に対する非難を始めているが、これは事実に基づいた主張ではなく、テロを奇貨として自らの意見を開陳したに過ぎず、ご都合主義以外の何ものでもない。……世界中に、怒りと復讐の念が渦巻いていることは理解できる。しかし、冷静に状況を見極め、客観的な捜査の進展を待つことが必要だ」
 
 また退役空軍大将で「米国21世紀国家安保委員会」の議長を務めたチャールズ・ボイドは『ワシントン・ポスト』への寄稿でこう述べる。
 
「何も対応しないということは考えられない。それでは米国のリーダーシップは地に落ちて、さらなる攻撃を招くのは確実だ。しかし過剰もしくは不正確な対応は、我々をこの事件を起こした臆病者たちと同じ道徳的次元に立たせることになる」
 
 その通りで、まず実行犯を米国内法によって裁判にかけて事実を究明し、すでに米紙が捜査当局のリークを元に報じているように「彼ら18人のうち少なくとも16人は何らかの形でビンラーディンの組織に関係していた」のは事実としても、それだけではビンラーディンが首謀者であるという根拠にはならないわけだから、慎重な審理の末に実際に彼がこの計画を立案し指示したのかどうか、実行犯に資金を手渡したのかどうかなどの事実を証拠に基づいて確定し、そこで初めて庇護者であるタリバンに対して彼の身柄を米捜査当局なり国際法廷なりに引き渡すよう要請をし、タリバンが不当な理由でそれに応じない場合に、国連やイスラム首脳会議などの場を通じた説得と圧力工作、国際的制裁、そしてそれらがすべて奏功しなかった時に軍事作戦が発動される──というのが物事の順番というものである。しかし、米国内では上述ボイドのような意見は少数派で、「そんなまだるっこしいことをやっていられるか!」という論調が支配的である。
 
 第2に、それで軍事作戦しかないという場合に、作戦目標は(1)報復なのか、(2)ビンラーディンの抹殺もしくは身柄拘束なのか、(3)タリバンそのものの抹消なのか、(4)ビンラーディンが関係する各集団をはじめすべてのテロ組織の壊滅なのか──を明確にしなければならない。湾岸戦争の際は、目標をサウジ防衛→クウェート奪還→イラク報復→フセイン抹殺というように次々にエスカレートさせようとするブッシュ父大統領とそれに慎重なパウエル参謀総長とがしばしば対立し、結果的には最終目標を達成することが出来なかった。
 
 報復は「目には目を」「テロにはテロを」の単なる気晴らしのようなもので、作戦目標として適切でない。
 
 (4)のすべてのテロ組織の撲滅は、もちろん国際社会の共同の目的だが、これは、主要国首脳会議を緊急に開催して国際テロとの対決を宣言し(すでにロシアやイタリアから提案が出ている)、誰よりも先ずイスラム社会が自力で解決するようイスラム首脳会議の開催を促し、各国の警察・情報機関の捜査協力と情報交流の枠組みを作り上げ、テロ組織に避難所を提供する国に対し警告と制裁を与え、必要にして十分な条件が揃った場合にテロ基地に対し共同の軍事攻撃を仕掛ける──といった長期的な、主として外交的な取り組みが必要で、ヘンリー・キッシンジャー博士のように「テロ組織に協力して避難場所を提供する国々には、その施設を容赦なく軍事攻撃する」(17日付読売)と言うのは、脅しとしてはそれでいいとして、政治的・外交的枠組みを積み上げることなしにいきなり軍事手段でという訳にはいかないだろう。同博士が言うように「彼らをかくまっている国の数は、たかが知れている」のは事実だが、ビンラーディン関連組織の工作員は中東各国はもちろん米国、欧州各国など世界40〜50カ国に散らばって長年に渡ってスリープしていると言われており、それまで炙り出して根絶するには軍事手段では足りない。
 
 アフガニスタンを焦土と化してタリバンそのものを地上から抹消するというのは、イラクに対するのと同じ問題を孕む。タリバン政権の正統性には大いに疑問があるものの、一応、アフガニスタンは1個の主権国家であり、その指導部の行いがよろしくないからといって、罪のない市民まで巻き込んで焦土化するのは国際法的および人道的に大問題である。
 
 結局、軍事作戦の目標は(2)のビンラーディンの捕捉ないし殺害に絞り込まざるを得ないのだろうが、それをどのように達成するかはなかなか難しい。
 
 軍事的な手段としては、(a)空爆、(b)特殊部隊の突入、(c)数十万の地上軍投入がありえよう。特殊部隊の投入は、ターゲットが絞られていれば有効な場合もあるが、ヘリで突入・降下した部隊がタリバンに包囲されて、それと戦いつつビンラーディンの隠れ家に迫ることが出来るかどうかはだいぶ疑わしく、その前に全滅するかもしれない。そうなると、数十万の地上軍を投入してタリバンを撃破しつつ、特殊部隊が彼を襲撃する状況を確保するのが現実的ということになるが、仮にパキスタン政府が全面協力したとしても、カラチからイスラマバード経由、カイバル峠を超えて約2000キロに及ぶ輸送・補給ルートをパキスタン国内の過激派の側面攻撃から安全に確保するのは事実上不可能だし、その問題をクリアしたとしても、旧ソ連のアフガン派遣軍が地獄の戦場で10年間のたうち回って空しく撤退したのと同じ轍を踏んで、多数の戦死者を出すことになる危険が大きい。とはいえ、今回は米国は「米兵の命が失われることは何としても避けたい」とは考えないかもしれない。また旧ソ連軍の失敗についてロシアから情報提供を受けて十分に研究した上で臨むだろうから、地上軍投入はないとは断定できない。
 
 空爆は、実際に複雑な地形の山地を転々として洞穴に隠れているであろうビンラーディンを爆殺することは至難の業だろう。国連難民高等弁務官事務所カブール事務所の山本芳幸所長は「アフガンには隠れ家に適した洞窟が多い。日々移動しているのは間違いなく、追跡は不可能だ」と語っている(16日付毎日)。
 
●日本は何を?
 
 日本政府が、犠牲者に対する心からの哀悼の意と同時に国際テロを根絶しようという米国の決意への支持を表明したのは当然として、そこからいきなり話が飛んで、米国が軍事作戦に出た場合に湾岸戦争の時のようにお金だけ出すということで済まされるのかどうか、NATO並みに集団的自衛権の行使に踏み込むべきか、はたまた日米安保協力を「周辺事態」の外にまで拡張するために法改正をすべきかどうかという議論に行ってしまっているのは、いささか奇妙である。
 
 同盟国だから米国のすることには何でも従わなければならないということはないのであって、仮に米国が採用する軍事作戦が過剰なものであった場合にはそれを諫めるのも同盟国の役割である。それが妥当と判断されるものであった場合には、もちろん国是との関わりで出来るだけの協力をすればいいことで、何もあわてふためくことはない。
 
 それよりも、日本政府としてまず考えるべきは、まず第1に、こんなことが米本土で起きた以上、日本をはじめ世界のどこでも同じことが起こりうるという前提に立って、日本国内でのテロ防止策を万全にし、また世界に散らばる在留邦人や旅行者の安全を図るために特に在外公館が情報拠点として、また救護センターとしていかに効率的に機能できるかの態勢整備を図って、国民に安心を与えることである。
 
 実際、例えば北朝鮮が日本を核攻撃しようという場合、同国が莫大な費用と時間をかけて核兵器とミサイルを開発する必要など毛頭ないのであって、ダイナマイトを抱えたたった1人の工作員が敦賀の原子力発電所に特効攻撃を仕掛ければそれで済む。本誌が北朝鮮の核疑惑テポドン発射の騒動を基本的に「くだらないことだ」という姿勢を採ってきたのはそのためで、仮に北にそうする気があればとっくに対日核攻撃は起きているのであって、それが本物の核爆弾や精度の高いミサイルが完成しない限り起こりえないことだと想定するのは、国家間戦争の時代の常識に毒されて現実が見えなくなっている証拠である。ところで、そのような千差万別の形を取るであろうテロ攻撃をすべて予測して事前に軍事的対策を準備することは現実には不可能で、何よりもまず相手の国なり集団なりが「そうする気」が起きないように日頃から付き合いを深めるという政治的・外交的努力が大事になる。その上で、しかし、それにもかかわらず日本で大規模テロが起きるとすればどのような様態がありうるかについて徹底的に研究し、防護策を立てなければならない。「米国から何を言ってくるか」で色めき立って、日本として国際テロにどう対処するかが後回しになっているところが、いかにも日本的と言える。
 
 第2に、軍事作戦以前の国際的な政治的・警察的なテロ根絶のフレームワーク作りに積極的な役割を買って出るべきだろう。その場合に、この問題が欧米vsイスラムの文明の衝突図式に落とし込もうとする策謀がイスラエルや米ユダヤ・ロビーによって仕組まれる公算が大きいので、中東諸国と同じアジアの一員であり、また米国のように中東で汚い作戦に手を汚していない日本は、イスラム世界との対話を重視し、テロ撲滅についても、まずイスラム諸国が自ら結束して問題の解決に当たるべきことを説得して歩くといった努力が重要になるだろう。湾岸戦争の時の日本の協力について「金を出しただけ」と言われたことを、「じゃあ今度は兵隊を出して一緒に血を流さなければ」と考えるのは短絡で、軍事以前の積極的な外交的イニシアティブを発揮出来ればそんな言われ方をすることはないのではないか。▲