A.ラシッド『タリバン』
──テロ事件を考えるための読書案内(2)
著者のアハメド・ラシッドはパキスタン出身の国際ジャーナリストで、アフガニスタンはじめ中央アジアの問題を20年以上も取材を続けてきた豊富な経験に基づく情報力と分析力で定評がある。今回のテロ事件以後のパキスタン、アフガニスタン情勢についても米有力紙や『選択』『現代』、インターネット上などで盛んに論評を繰り出している。本書はその彼が、90年代半ばに戦乱続くアフガニスタンに忽然として登場した神学生の戦士「タリバン」の謎に包まれた素顔を描いた力作で、2000年に出版され同年中に講談社から邦訳が出た。なお彼の中央アジアについての著書『よみがえるシルクロード国家』も講談社から翻訳が出ている。
■アジアの心臓部
現代のアフガニスタンは、面積65万平方キロ(日本の1.75倍)、国土は真ん中を貫くヒンズークシ山脈によって南北に分断されている。人口は約2000万人[共同通信社『世界年鑑』では00年推計で2583万人]。6000年に及ぶ侵略と抗争、そして諸文明の興亡を反映して、様々な人種が入り交じっているが、おおまかにいって、ヒンズークシの南側は人口の40%を占めるパシュトゥン人と少数のペルシャ語を話す民族が、北側にはペルシャ系とトルコ系の民族が住んでいる。ヒンズークシの山間部には、タジク人モンゴル系のハザラ人が住む。ハザラ人はかつてペルシャ人によってイスラム・シーア派に改宗させられ、以来ペルシャ語方言のダリ語を使っている。彼らを除く他のほとんどはスンニ派である。
ヒンズークシの南麓に首都カブールがあり、そのあたりの平地は国内で最も農業生産性が高い地域。東部には、パキスタンとの国境をなすやや低い山脈が連なり、パシュトゥン人はその両側に住む。パシュトゥン人はインド・ペルシャ系言語が入り交じったパシュトゥ語を話す。西部と南部はイラン高原の東端に位置し、荒れた砂漠で人口は希薄だが、オアシスの町ヘラートは例外で、3000年にわたって文明の中心地だった。西部の諸民族が話すのはペルシャ語方言のダリ語である。
ヒンズークシの北側は、中央アジアの広大な草原で、その苛酷な土地で暮らすウズベク人、トルクメン人、キルギス人などトルコ系言語を話す民族はきわめてしたたかで、荒々しい兵士たちを作り出してきた。
イラン、アラビア海、インド、中央アジアを結ぶ十字路に当たるアフガニスタンは、その地政学的位置のゆえに「アジアの心臓」とか「アジアの操縦席」とか呼ばれてきた。紀元前からアフガニスタンはイランとともにゾロアスター教(拝火教)の地であった。ユーラシア大陸の歴史に登場するすべての征服者が、この地を通過し支配しあるいは破壊したが、最初の著名な征服者はアレキサンダー大王で、彼の率いるマケドニア軍はここを通過してインドを侵略し、帰りがけにヒンズークシの山中にギリシャ文明によって味付けされた仏教文化を残して行った。
7世紀にはアラブ軍がイランとアフガニスタンを征服し、平等と正義を説くイスラムの教えを持ち込んだ。9〜10世紀のイランにはサーマン朝が起こり、ゾロアスター教と習合したシーア派文化が栄え、アフガニスタンも美術と文学の新ペルシャ・ルネッサンスの舞台の一部となった。10世紀末から12世紀にかけてアフガニスタンを統治したのはガズナ朝で、インド北西部のパンジャブ地方とイラン東部にまで勢力を伸ばした。
13世紀初、チンギス・ハンが率いるモンゴル軍が、パルフやヘラートなどの都市を破壊し、屍の山を築いて通過して行ったが、そのとき彼らと原住民との混血として生まれたのがハザラ人である。14世紀には、今のウズベキスタンのモンゴル系バルラス族からチンギス・ハンの後継者を自認するティムールが出て、ロシアからペルシャに広がる大帝国を築き、首都サマルカンドを中心にイスラム文化と学術が栄えた。彼は1381年にヘラートを占領し、彼の死後、息子のルフはティムール帝国の首都をヘラートに移した。トルコ系の遊牧文化とペルシャ文明とがそこで融合し、ヘラートを当時の世界で最も洗練された文化都市の1つにした。
15世紀末、ウズベク人のシャイバニ朝によってティムール帝国は滅ぼされ、故郷を追われたティムールの孫バーブルは南に新天地を求め、1504年にカブールを、その後デリーを征服してアフガニスタンからインドにまたがるムガール帝国を建てた(ムガールとはモンゴルの意味)。ムガール帝国は英国がやってくるまでインドを統治した。
■パシュトゥン人
西のペルシャ・サファビ朝、東のインドのムガール朝、北のウズベク王朝のいずれもが傾いた18世紀の混乱期に、アフガニスタンで最初の近代国家を創ろうとしたのが南部のパシュトゥン人だった。1761年にアハマド・シャー・ドゥラニがすべてのパシュトゥン人部族をまとめ、デリーやカシミールを含む最初のアフガン帝国を築き、200年以上も続いた。1973年にザヒル・シャー国王が従兄弟のダウドによる無血クーデタで追放され、ダウドは共和国を宣言して大統領になった。
ダウドは、近代化のための援助を旧ソ連に求め、その見返りとしてイスラム原理主義を弾圧した。そのため、原理主義の指導者だったヘクマティアル、ラバニ、マスードらは、パキスタンのペシャワルに脱出し、パキスタンのザルヒカル・アリ・ブット首相の支持を得て力を蓄え、やがてそれぞれにムジャヒディン(イスラム武装勢力)を率いることになる。
78年に親ソ派共産党がクーデタを起こしてダウドを一族郎党もろとも殺し、タラキが大統領になったが、彼はアフガンの複雑な部族社会に性急に共産主義を導入しようとして地方のイスラム勢力からの反乱を招いた。共産党は2派に分かれて流血の内部抗争に填り込み、タラキがアミンに殺され、そのアミンは79年12月、ソ連軍が侵攻してカルマルを大統領に据えたときにソ連の特殊部隊スペツナズの手で殺された。ムジャヒディン各派はソ連とそのかいらい政権に「ジハード(聖戦)」を宣言し、それを米国、中国、サウジアラビアはじめアラブ諸国が資金と武器を与えて援助し、89年にソ連軍が撤退するまでの10年間にアフガン人150万人が死んだ。
ペシャワルには、パキスタンが承認し支援する7つのムジャヒディン政党があり、米CIA援助の分け前を受け取っていた。その中には、パシュトゥン人の大半を占めるドゥラニ・パシュトゥン人の党は含まれておらず、彼らは南部のカンダハルで各個にソ連軍と戦っていた。ドゥラニの部族政党には、ナビ・モハメディ率いる「イスラム革命運動」、ユヌス・ハリスの「イスラム党(ハリス派)」、ガイラニの「イスラム民族戦線」などがあった。後にタリバンの指導者になるムラー・オマルはハリスの党に加わっていた。ガイラニは、ローマで亡命生活をしていたザヒル・シャー国王が帰国して反ソ抵抗運動の指導者になるよう求めていたが、それにはパキスタンと米国が反対していた。ペシャワルには米パの支援で大きくなったムジャヒディンの1つにヘクマティアルが率いる「イスラム党」があり、その幹部は都市出身の教育あるパシュトゥン人で占められていたが、彼らは主に東部やパキスタン領内のパシュトゥン人で、カンダハルとは縁が薄かった。
89年にソ連軍が撤退した後、ナジブラ政権とムジャヒディンの内戦が続き、92年にムジャヒディンが首都カブールを占領するが、その中心勢力は、ラバニを指導者とし伝説的な軍人マスードを司令官とするタジク人部隊と、ドスタム将軍のウズベク人部隊とであって、ドゥラニはもちろんペシャワルのパシュトン人も含まれていなかったことが、内戦の泥沼化を招いた。大統領に就いたラバニに対して、ヘクマティアルが攻撃を仕掛け、やがて北部6州を支配するドスタム、バーミヤン州を抑えているハザラ人がそれに加わった。南部は旧ムジャヒディンから分かれた小軍閥や部族長や強盗集団が割拠して無政府状態に陥っていた。この混乱状態がタリバンが登場する条件となった。
■タリバン
「イスラムは常に、アフガン人の生活の中心にあった。……アフガン人ほどイスラムの儀式と信仰を規則正しく、心をこめて守るムスリム(イスラム教徒)は世界でもほとんどいない」
アフガンの伝統的なイスラムは元々穏健で、他宗派や他宗教や近代的なライフスタイルに対しても非常に寛容だった。「アフガン人の90%はスンニ派で、スンニ4学派の中では最もリベラルなハナフィ学派に属している。イスラム・シーア派はハザラ人の間では支配的で、ごく少数のパシュトゥン部族、少数のタジク氏族、そして一部のヘラートの住民も同派に属している」
急進的なイスラムは、対ソ聖戦以前のアフガニスタンには基盤を持っておらず、パシュトゥンで育てられたムジャヒディンがパキスタンの「イスラム協会」に感化されたことによって同国に持ち込まれた。急進的なイスラム政治運動(すなわちイスラム原理主義)の元祖は、1928年にエジプトでハッサン・アルバンナによって設立された「ムスリム同胞団」で、その影響を受けて1941年にパキスタンで結成されたのがイスラム協会である。
「同胞団の運動は、植民地主義を打倒するために、民族主義あるいは共産主義革命ではなくイスラム革命を望んだ。これらのイスラム主義者たちは、伝統的なムラーたちに反対し、現地出身の新植民地エリートとの妥協を拒否し、急進的な政治改革を求めた。それは預言者ムハンマドがメッカとメディナに築いた真のイスラム社会を再現するとともに、近代世界に挑戦する変革だった。彼らは民族主義、部族的分断、封建的階級構造を否定し、ウンマ(イスラム共同体)を再統一する新しいムスリム国際主義を提唱した。この目的を実現するため、パキスタン・イスラム協会やヘクマティアルのイスラム党は、共産党と同様な細胞編成、極端な秘密保持、政治教育、軍事訓練を実施する高度に集中した政党を結成した」
彼らは1人のカリスマ的指導者に頼ってその独裁を認めるところに弱点がある。しかし彼らは、タリバンに比べれば「近代的で前向き」で、女性の教育や社会進出に好意的だったし、イスラム的な経済や銀行システム、対外関係、より公平な社会システムのための理論を発展させようとした。
「タリバン運動の出現は、反ソ戦争の中で有力になったイスラム[急進]主義の潮流を反映したものではまったくない」
パキスタンには、イスラム協会と激しく対立するもう1つのイスラム政党があって、それはデオバンド主義の「ウレマ・イスラム協会(JUI)」である。デオバンド主義は、19世紀に英領インドのデオバンドで生まれたスンニ派ハナフィ学派の一分派で、非ムスリムの支配を覆してムスリム社会の改革を進めようとするもので、女性の役割については規制的な考えを持ち、またシーア派とイランに対しては激しい敵意を示した。
対ソ戦争を通じて、米国による資金・武器支援は、イスラム協会と深く結びついたパキスタン軍統合情報部(ISI)を通じて、主としてヘクマティアルのイスラム党の助けを借りて注ぎ込まれた。何の政治的役割も与えられなかったJUIは、イスラム協会に対抗して、国境の両側のパシュトン人地帯やアフガン難民キャンプに独自にマドラサ(神学校)を作り、80年代末には8000のマドラサと2万5000の未登録校で50万人以上のパキスタン人とアフガン難民の子供たちを教育していた。その中から、ヘクマティアルはじめ聖戦ムジャヒディンに対してひどく冷笑的な若い過激派集団の分派がいくつも誕生した。それらがムラー・オマルという指導者を得て「タリバン(イスラム神学生たち)」となった。
しかし、タリバンの極端な教義はデオバンド主義そのものではない。「タリバン流解釈に似た教義はムスリム世界のどこにも存在しない」代物で、戦乱の中で生まれて見捨てられた“戦争しか知らない子供たち”が、イスラムとアフガンの歴史も教えられず、イスラム法とコーランの知識も与えられず、ただ敵を憎むことだけを教え込まれたことによる一種の奇形集団と言えるだろう。
■ビン・ラーディン
86年にウィリアム・ケーシー米CIA長官は、アフガンへの関与を一層強化する極秘の措置を採用した。第1は、ムジャヒディン・ゲリラに米国製の地対空ミサイル“スティンガー”を900基提供し、その扱いを含めてゲリラに訓練を施すために米軍事顧問を派遣すること、第2に、CIA、英国の対外情報部(MI5)、パキスタンのISIが支援して、ソ連のアフガン派遣軍の補給基地となっている当時はソ連邦下のウズベキスタン、タジキスタン両共和国に挑発的なゲリラ攻撃を仕掛けること(これはヘクマティアルの部隊が実行した)、第3に、世界中からムスリム急進派をパキスタンに呼び集めてムジャヒディンと共に戦わせるというISIの計画を米国が支援すること──である。
「82年から92年にかけて。中東、北アフリカ、東アフリカ、中央アジア、東アジアなど43カ国から集まったムスリム急進派ざっと3万5000人が、アフガン・ムジャヒディンと共に砲火をくぐることになる。それ以外に数万人が、パキスタン軍事政権の財政援助を受けてパキスタン国内やアフガニスタン国境に新設された数百のマドラサに学びにきた。最終的には10万人以上の外部からのムスリム急進派がジハードの影響を受けた。……これらのキャンプは、実質的に未来のイスラム急進主義の大学となった。このプロジェクトにかかわった情報機関のどれも、世界中から多数のイスラム急進派を集めることの結果について、考えてみようとはしなかった。……米国市民は、アフガンで訓練を受けたイスラム過激派が93年にニューヨークの世界貿易センターを爆破、6人が死に1000人が負傷するという結果を見るまで、[その重大性に]気が付かなかったのである」
とラシッドは書いているが、今にして思えば、それでも米国の政府も市民も、ケーシー長官の作戦がパンドラの箱を開けてしまったことに気付いていなかったのである。
さて、その何万もの外国人兵士の中にサウジアラビアの若い学生ウサマ・ビン・ラーディンが混じっていた。彼の父親は、大手建設会社を経営するイエーメン人で、故ファイサル国王の親友でもあった。サウジ情報局の責任者トゥルキ・ビン・ファイサル殿下は、ISIから「王室の一員がアフガンのサウジ部隊を指揮してほしい」と要求されて困っていた。甘い生活を送る王族に、アフガンの荒涼たる山地でソ連との戦争に命を懸けようとする者などいるはずがなく、そこで王室とも近く金持ちの息子でもあるウサマが選抜された。彼は80年から2年間はペシャワルとサウジを往復して支援の寄付を集める仕事をし、82年にペシャワルに住み着いて、自分の建設会社の技術者や重機を使ってムジャヒディンのために道路や武器庫を建設した。86年には、CIAの資金で国境近くの山中に大規模な軍事訓練場や武器庫や医療センターを一まとめにした一大地下施設を作り、その中に初めて自前の軍事訓練キャンプ「アル・カーダ」を設営、米国製の武器で武装したアラブ義勇兵をパキスタン軍や米軍の将校に訓練させた。
彼はムジャヒディンの内部抗争に嫌気がさして90年に故国に戻り、アラブ義勇軍の帰還兵士たちのための福祉団体を設立した。帰還兵はメッカとメディナに住む者だけで4000人を超え、彼らや戦死者の家族のために募金を集めた。イラクがクウェートに侵攻した時、ビン・ラーディンはサウジ王室にクウェートを防衛しイラクと戦うための人民軍を組織し、そのためにアフガン帰還兵をあつめることを提案した。しかしファハド国王はそれを受け入れず、54万人の米軍の駐留を認めた。彼はショックを受け、内務大臣のナイフ王子を「イスラムの裏切り者」と公然と罵った。
王室内部には彼を支持する者もいたが、結局彼は国を出てスーダンのイスラム革命運動に参加して、たくさんのアフガン帰還兵を呼び寄せた。彼は、湾岸戦争が終わった後も引き続き2万人の米軍を駐留させているサウジ王室を激しく批判し、耐えかねたサウジは94年に彼の国籍を剥奪した。サウジと米国の圧力で、スーダン政府が彼に出国を求めたので、ビン・ラーディンは96年5月にアフガニスタンに戻り、8月にサウジを“占領”している米国に対するジハードを宣言した。97年初めに、CIAが編成した特別奇襲部隊がペシャワルに入り、ビン・ラーディンを捕まえる作戦を準備したが実行に至らなかった。そのため彼は、より安全なカンダハルに引っ越し、ムラー・オマルとタリバンの保護下に入った。翌98年2月には、かつてアル・カーダで訓練を受けたすべてのグループを招集して「ユダヤ人と十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」を結成、すべてのイスラム教徒に向かって「米国人、英国人と対決し、戦い、殺せ」と呼びかけた。
「しかし、米政府は、CIAが支援したアフガン聖戦がイスラム世界に多数の原理主義運動を産み落としたことを認めようとしなかった」のである。
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